昭和初期から太平洋戦争が終わるまで、旧海軍に通称「予科練」というパイロット養成機関があった。全国から十代の少年が空に憧れを抱いて入隊したが、待っていたのは、想像を絶する過酷な訓練の日々、そして、その先の特攻出撃命令だった。仙台市に住む、元予科練生を取材した。

旧海軍の飛行パイロット養成機関

提供:茨城県阿見町
提供:茨城県阿見町
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「海軍飛行予科練習生」、通称「予科練」。1930年から太平洋戦争終戦までの15年間、旧海軍が置いた飛行機のパイロット養成機関だ。14歳から17歳までの少年を全国から試験で選抜して集めた。

15年間で24万人が入隊。実際に戦地に赴いたのは約2万4千人だが、そのうち8割に上る1万9千人が戦死。いわゆる「特攻作戦」で命を落とした人も多数いると言われている。

小松米男さん
小松米男さん

戦場に送り出される直前に終戦を迎え、生き延びた元予科練生が、仙台市内に住む小松米男さんだ。小松さんは18歳になる1943年、「甲飛14期予科練生」として入隊した。

小松米男さん:
予科練に行けば3年ぐらいで飛行機に乗って戦争に行けるんだと、早く我々が行って勝たなくてはいかんのではないかと。

少年たちの憧れだった予科練

「予科練」は当時の少年たちにとって、憧れの存在だったという。国を守るという崇高な使命を果たす名誉ある存在というだけでなく、給料をもらって教育を受けられることも、志願者には魅力だった。

予科練の人気を決定的にしたのは、予科練を舞台にした「決戦の大空へ」というプロパガンダ映画の挿入歌「若鷲の歌」。当時、大流行していた。

♪~ 若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が沸く

小松さんが今も保管する「七つボタン」の制服
小松さんが今も保管する「七つボタン」の制服

歌詞に登場する「七つボタン」。『世界の七つの大洋を越えて、大空を駆け巡る』ことを意味していたという。七つボタンは、予科練の代名詞となり、少年たちの憧れの的になった。
小松さんは、その「七つボタン」を今も保管している。

「すべてが辛い」体罰伴う訓練の実態

提供:茨城県阿見町
提供:茨城県阿見町

多い時で数十倍という難関試験を通過し、いざ入隊すると、憧れとはほど遠い生活が待っていた。

小松米男さん:
すべてが辛いです。楽な訓練ってなかったです。

隙間なく並べられたハンモックで眠り、起床の合図とともに肉体と精神を極限まで鍛える毎日。失敗は許されず、全てに体罰が伴った。

小松米男さん:
罰打(バッタ)という、直径が5~10センチくらいかな。角材でもなんでもあるものを持って来いと、それで尻を叩くんですよ。相撲でも柔道でも剣道でもみな試合させて、負けた者は罰打

提供:茨城県阿見町
提供:茨城県阿見町

予科練生が学ぶ、「モールス信号」の打電。記号化された秘密文を1分間に80字というテストがあり、合格できないと、これも罰打が待っていた。
激しい体罰も痛みや恐怖に耐える訓練とされていた。

小松米男さん:
馬鹿らしいと思うけれど仕方ないんだね

「死ぬんだったら早く死んだほうが」特攻への配属命令

特攻に用いられた「震洋」
特攻に用いられた「震洋」

戦況が日に日に悪化する中、1945年6月23日、小松さんに「震洋特別攻撃隊員」、通称「震洋特攻」への配属が命じられた。「震洋特攻」とは、爆弾を積んだモーターボートで敵艦に体当たりし自爆する攻撃のこと。出撃は、それすなわち“死”を意味する。

小松米男さん:
(出撃を命じられた時は)何にも思わないね。“死ぬ”ってだけしか。どうせ死ぬんだったら早く死んだほうがいいなって。

過酷な訓練に耐えた先が“死”という矛盾を受け止めながら、この作戦の無謀さも冷静に感じていた。

小松米男さん:
がっかりした。やっぱり日本は無線で聞いている通り、負けているんだと思って。

特攻を告げられた直後、戦友が小松さんに宛てた貴重なメッセージが残されている。

「汝の命は御国に捧げしものなれば生きて帰るとな思ひそ(お前の命はすでに国家のために捧げたものなのだから、(戦場から)生きて帰ることなど考えるな)」
「共に辿らん死の道を(共に死の道をたどろう)」

小松米男さん:
我々もあとから行くから、小松は先に行って(天国で)待っていろよって。
「分かった分かった」って、そんなもんよ。

出撃の直前に迎えた終戦 生き延びて得た幸せ

小松さんは飛行予科練集航空隊で待機中に終戦を迎えた
小松さんは飛行予科練集航空隊で待機中に終戦を迎えた

その後小松さんは、1945年9月に出撃するという命令を受け、岡山県の「飛行予科練習航空隊」で待機中に、終戦を迎えた。今でこそ言える、当時の心境をこう話す。

小松米男さん:
冷静になると行かないで済んで、これに越したことはないよね。本当を言えば生きていて良かった。こんな苦労をしても。

孫やひ孫にもめぐまれた
孫やひ孫にもめぐまれた

戦後は公務員として働いた小松さん。孫やひ孫に囲まれ穏やかな暮らしを送っている。

小松米男さん:
いやあ幸せだよ、こんな幸せなことないね。

生き延びた自分の命の意味も考え続けてきた。

小松米男さん:
命は自分のものだから大切にしなきゃいけない。どんな自由な世の中でも、命だけは自分のものだと。

だからこそ「国のために」という美名のもと、同世代の若者が多数犠牲となった戦争は絶対にしてはいけないと話す。

小松米男さん:
戦争は絶対だめだね。お互い殺し合いするからね。仲良くしてればいいの。仲良くするにはどうすればいいかを考えればいいんだよね。

仙台放送 

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