秘匿名『〇ト部隊』。太平洋戦争末期に“寄せ集め”のようなかたちで緊急召集された部隊だ。フィリピンでの壮絶な戦いで、その大半が戦死した。戦後80年。〇ト部隊に召集された兵士の手記が福岡・久留米市で見つかった。
終戦の前年 幼い子どもを残し召集
「やっぱり怖いというか、厳しいというか…。えらい几帳面で、毎日、日記はずっと付けていました」と父親について静かに語るのは、久留米市に住む水田フミ子さん(78)。

2008年に93歳で亡くなったフミ子さんの父親、桑野忠男さんは、農業を営みながら一家を支えてきた。

忠男さんは1944年8月、30歳のときに7歳の長女と3歳の長男、そして妊娠中の妻を残し召集された。その後、フィリピンに出征。壮絶な“飢餓戦”の体験を手記に残していた。

日に日に戦況が悪化していた1944年8月7日。忠男さんに召集令状が届いた日の手記には、悲痛な思いが綴られていた。

▼忠男さんの手記より「役場の熊さんがきて『ごめんなさいっ、桑野君いるかい…』手渡ししたのが赤紙。もう今度こそだめだ。生きては帰れないからこれが私の形見だ…。髪の毛を切り、手と足の爪を全部切った。妻は真っ赤になって、頭を上げず、涙を出していた」

終戦のほぼ1年前に来た招集令状。「兵力が足らなくて、とにかく少しでもなんか、できるようなやつは集めるみたいな…。部隊名は『○ト部隊』と言っていました」とフミ子さんは日記を見詰め、当時の状況を話す。

秘匿名、○ト部隊。その活動を記した数少ない資料が残されている。部隊を率いた中佐の名前から一文字を取った〇ト部隊には、緊急の補充員として主に福岡や佐賀などから約1000人を召集した。

桑野さんの名前もそこに記されていた。
フィリピンに出征 壮絶な体験
召集から2カ月後、部隊が、にわかに慌ただしくなる。フィリピンに出発することが判明したのだ。

▼忠男さんの手記より「翌日二十一日、ほんとに出発した。盛大な見送りはどこにもなく只、黙々と博多駅に向って歩いて行った」

家族にも会えぬまま、博多駅まで歩く。駅に到着するそのとき家族の姿を見つけたのだ。

▼忠男さんの手記より「『居たっ』確かに姉妹がいる。感激が電流に打たれたような気になった。『オイッ来てくれたか…有り難い』『オーオ、だいぶん待ったよ。もう五、六時間位』『サァこれ持って行きな』と言って渡してくれた五合余りの焼酎とそら豆のいり豆、それに若干のボタ餅。僅か三十秒位の面接であり別れであったのです」

当時16歳だった忠男さんの妹の吉武キヤ子さん(97)は、今もその日のことを憶えていると話す。「砂糖も何もない時分に、砂糖を入れておはぎを作っていた。向こうも手を振っている。私も手を振りながら見ていきよった。そのときは笑顔じゃったの…」

〇ト部隊は、11月にフィリピン上陸。そこから翌年8月の終戦まで、壮絶な戦いが続いた。
日本軍は補給を断たれ、主力部隊が壊滅した以降はジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなった。多くが餓死し、マラリアなどの伝染病や戦傷の悪化、現地ゲリラの襲撃等により死んでいった。
「馬鹿野郎ッ、眠っちゃ駄目だ」
▼忠男さんの手記より「すぐ横に爆弾が落下して、その爆風により、岩に当たってたたきのめされて二人は死んでいた。今朝から何一つ喰っていないので、空腹と寒さが身にこたえる。夜中になって一人の兵隊が眠くて眠くて、たまらぬ…。『馬鹿野郎ッ、眠っちゃ駄目だ』と大声で気合いを入れてやるが、雨でべちゃべちゃの土の上に寝てしまった。そして間もなく死んでしまった」

妹の吉武キヤ子さんは「第一線の勇士は必ず勝つ、負けたためしがないって、何がそんなことがあろうか。だけどそう言わなきゃいけなかった」と当時を振り返る。

そして終戦。〇ト部隊は1000人中、900人以上が戦死。なんとか生き延びた桑野さんは、漸くの思いで、ふるさとへの帰還を果たした。

▼忠男さんの手記より「『只今帰って参りました』すかさず母親が『お前は本物か』と言ったのには驚いた。『間違いありません。忠男です』と言ったら、やっと安心した様子で『あぁよかった』と言いながら涙をながしてしまい、ものも言わなくなった」

妹のキヤ子さんはその日のことを憶えている。「この人が帰ってきてくれて家の中が明るくなってきた。戦争は嫌ばい。負けても勝っても嫌」

人生最期の言葉は「お母さん」
忠男さんの遺品をまとめた倉庫からは、出征先から家族に宛てた手紙が見つかった。戦地で募るのは、家族への思いだ。

▼忠男さんの手紙「近頃、大変な戦闘になった。いつ死ぬか分からぬというので部隊ではみな覚悟をして、いろいろ身の物を保存している。もしものことがあったらよろしく頼む。今は朝晩、君がくれた千人針とお守様を伏し、拝んでいる。では元気でな…」

忠男さんは、手記の最後にこう書き残していた。

▼忠男さんの手記より「若い独身の兵隊の人生最期の最期に出て来る言葉はなんと『お母さん』の一言。咄嗟に出てくる自然の言葉。戦争は人類撲滅の至上の方策でしかない。戦争はイヤだ!」

約1000人いた〇ト部隊のうち、日本に帰還できたのは僅か60人ほど。
忠男さんは帰還後、亡くなった戦友の遺族を尋ね歩き、フィリピンで慰霊祭も開いていた。
(テレビ西日本)