2025年は「戦後80年」の年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。太平洋戦争中、17歳で秘密兵器「風船爆弾」の製造に携わった延岡市の元女学生が、当時の過酷な状況と平和への強い思いを語った。97歳になった今も、戦争の記憶と教訓を語り継ぎ、平和の尊さを訴え続けている。

 銃後の第一線で働きたい

1928年に延岡市で生まれた寺原八千代さん(97)は、教師を目指して県立延岡高等女学校専攻科に通っていた。 

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17歳だった1944年、太平洋戦争の戦局が悪化。「銃後の第一線で働きたい」と校長に直談判した。

秘密兵器の製造に携わった 寺原八千代さん(97):
か弱い女性たちが頑張ってもね、前を向くような戦ではございませんでしたよね。だけど、やっぱり何かしたい。何かお役に立ちたいという気持ちはみんなありましたね。

わずか数日後の11月中旬、寺原さんたち専攻科36人は、戦車や銃などを製造していた福岡県の小倉陸軍造兵廠に送られた。

 秘密兵器「風船爆弾」の製造

小倉陸軍造兵廠では、「マルふ」などと呼ばれた風船爆弾の製造が待っていた。

工場には多くの女学生が動員され、福岡県や岐阜県などで作られた和紙をこんにゃくのりで張り合わせて気球を作っていた。寒い冬に薬品などを扱うため、手がただれたり体調を崩す女学生も少なくなかった。

寮から工場まで片道1時間歩いて通い、1日12時間の2交代制で和紙の破れを確認する検査などを担当した寺原さん。「勝つか負けるかのね。瀬戸際ですから皆さん必死ですわ。自分たちは志願して行った組ですから、弱音は吐かれませんわね」と語る。

風船爆弾とは

小倉陸軍造兵廠の跡地に建つ北九州市の平和のまちミュージアムには、「風船爆弾」など、当時の資料が展示されている。

学芸員・小倉徳彦さん:
こちらは風船爆弾の7分の1の模型になります。上の部分、直径10mの和紙でできた気球に爆弾が吊り下げられた形になっております。

「風船爆弾」は、偏西風に乗せて飛ばすことでアメリカ本土を直接攻撃することを狙っていた。1944年11月から1945年3月までの間に千葉県など全国3カ所で約9000発が打ち上げられ、アメリカ本土に到達したのは約1000発と推定されている。

「アメリカの国民の士気を低下させる、戦意を低下させる、逆に日本の国民の戦意を上げる、士気を上げるといったことが目標として設定されていました。アメリカの国民には、情報統制されて知らされていなかったというふうに言われています」と小倉学芸員は話す。

しかし、大規模な作戦だったにも関わらず、被害にあったのは、オレゴン州でピクニックをしていた子供5人と妊婦1人の民間人とされている。

Q民間人を殺傷してはいけないという感覚はどうだった?
秘密兵器の製造に携わった 寺原八千代さん(97):
もうないですね。もう破れかぶれ、もう終戦間際はね、もう破れかぶれ、敵も味方も本当に。

延岡大空襲と終戦

延岡市の女学生36人は4カ月半製造に携わり、1945年3月に学校を卒業。その後、6月29日に延岡大空襲に見舞われた。

秘密兵器の製造に携わった 寺原八千代さん(97):
焼夷弾(しょういだん)が雨あられですね。家族中飛び出して愛宕山の防空壕(ぼうくうごう)に火の中をね、走って逃げましたわ。あとはもう一面焼け野原でしたね。

実家も全焼する被害を受け、延岡市内では300人以上が犠牲になったとされている。

そして8月15日に終戦を迎えた。

秘密兵器の製造に携わった 寺原八千代さん(97):
終戦になったときにね、ああ、よかった。もうなんか、ほっとしましたね。でも負けてよかったねって、あれ続いてたらどうなったであろうか、もう日本は無くなってたかもわからんよって、私たちは話したんですよ。

戦後の平和への願い

寺原さんは軍国主義の教育に問題があったと感じ、戦後は小学校の教師として40年間、子供たちに戦争の悲惨さなどを伝えた。

秘密兵器の製造に携わった 寺原八千代さん(97):
今生きてる人たちは、もう平和な世の中に生まれている人たちなんですよ。だから自分たちはこの平和が当たり前と思ってるけれども、二度と戦争は繰り返したらいかん。本当に繰り返したら日本はなくなりますわ。

戦後80年、寺原さんは、平和への強い思いを訴えている。

(テレビ宮崎)

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