1945年8月、太平洋戦争の終戦直前に女川湾一体が空襲を受け多数の死者が出た。当時、海軍の通信兵としてその空襲に遭った人が仙台にいる。今も忘れないという当時の記憶を聞いた。
「とにかく何でも競争」海軍通信学校から女川町へ

仙台市若林区に住む川村孝太郎さん。大正13年・1924年8月生まれ。太平洋戦争当時、旧海軍の通信兵だった。18歳の時、会社員となるもすぐに徴用され、神奈川県横須賀市の海軍通信学校に入った。
川村孝太郎さん:
通信と手旗両方やった。もうとにかく競争ですよ。何でも。遅いとやられちゃってね。教官に殴られたり。

6歳から宮城県内で暮らしていたこともあってか、海軍通信学校を卒業すると女川町へ派遣された。
所属したのは「女川防備隊」という部隊。当時、女川町は横須賀と北海道を結ぶ「三陸航路」の重要な中継地点で、海軍の船や漁船を守るのが任務の部隊だった。
終戦直前の空襲「操縦士の顔も見えた」

配属からわずか1カ月後の1945年8月9日早朝、女川町は空襲に見舞われた。終戦の6日前の出来事だった。
川村孝太郎さん:
駅の裏の方から突然来たんです。アメリカの航空母艦とイギリスの航空母艦が来て、何回も繰り返して攻撃してきたんじゃないかなと思うんですね。
乗っていた船から火が出て、上官から消火のために人を呼んでくるよう命じられ、川村さんは船を離れた。その途中に攻撃が激しくなったという。近くの山に逃げ、呆然とその光景を眺めていた川村さん。戦闘機や爆撃機は女川の町を超低空飛行で襲ってきたと記憶している。
川村孝太郎さん:
飛行機の操縦士の顔も見えたんですから。見えたくらいに低空。
200人以上が犠牲に 町の史料にも残る記録

町の歴史を記した「女川町誌」にもこの空襲の記述が残る。空襲は2日間にわたり、女川港一帯の軍事施設はほとんどが破壊された。海軍の戦死者は158人、民間人にも犠牲者が出て合わせて200人以上が亡くなったとされている。
川村さんが見ても、「大人と子供のけんかと同じ」というくらい、圧倒的な戦力の差だった。
川村孝太郎さん:
これが戦争かなと思ったけれど。とにかく私は震えていた。

富谷市に住む阿部浩さんは、女川空襲を含む太平洋戦争末期の県内の記録などをまとめて漫画にし、25年ほど前に自費出版した。社会科の教師をしていた阿部さんが長年かけて集めた資料を基に、自ら絵も描いて当時の状況や背景を伝えている。
阿部浩さん:
女川空襲は、イギリス軍とアメリカ軍合同の艦隊が攻撃したというのが一つの特徴。

女川空襲と同じ日には、松島や福島、岩手など東北各地が空襲を受けている。5月にドイツが連合国に降伏した後、イギリスの艦隊は目標を太平洋に移した。女川をイギリスの飛行機が空襲したのも、そうした背景があったためと見られている。
毎年の追悼式 毎朝の読経

女川町にはこの空襲の慰霊碑があり、毎年8月9日、10日は慰霊碑の前で追悼式が開かれている。川村さんはこの追悼式に毎年参加し、自身の体験を語り続けている。

川村さんは毎朝、女川空襲で亡くなった人たちの冥福を祈る般若心経を唱えてることを日課としている。川村さんの目には今もあの日の光景が焼き付いている。
川村孝太郎さん:
空襲の光景だけは今でもよみがえる。飛行機が来てどんどんどんどん女川の町にいた船に攻撃した光景だけは忘れない。
伝えたいことはたったひとつ。
川村孝太郎さん:
絶対に戦争はやっちゃだめだと思う。方々で戦争やってるし、日本だっていつ何時そういうものに入らざるを得ないと思うんだけど、絶対にやっちゃだめですね。
仙台放送