長崎に出向いて医師に診察してもらったところ、改善の見込みはなく、まもなく失明すると宣告されたという話もある。さらに悲劇だったのは、脊髄を痛めて歩行が困難になってしまったことだ。

こうして覚馬が病や障害と格闘している2年の間、政局は激動していった。幕府は第二次長州征討に失敗、倒幕運動が高まると、将軍慶喜は大政奉還を朝廷に建白。幕府は形式上、消滅することになった。

すると慶応3年12月9日、薩摩藩など数藩による朝廷内のクーデターがおこり、王政復古の大号令が出され新政府が樹立され、同夜の小御所会議で慶喜に対する辞官納地(内大臣の辞職と領地の返上)が決定した。

王政復古の大号令が出されると徳川慶喜は二条城から退去した(画像:イメージ)
王政復古の大号令が出されると徳川慶喜は二条城から退去した(画像:イメージ)

会津藩は激高するが、慶喜は静かに二条城から退去して大坂城に移り、事態を静観した。ところが江戸で佐幕派が薩摩藩邸を焼き打ちすると、大坂城の兵が騒ぎはじめ、慶喜はこれを抑えきれなくなり、京都への進撃を容認した。

こうして会津・桑名藩を主力とする旧幕府軍は、翌慶応4年1月3日、鳥羽口と伏見口で薩長ら新政府軍と衝突した。旧幕府側1万5000に対し、新政府軍は5000程度だったが、旧幕府軍が劣勢に立っていた。

翌日、朝廷は、仁和寺宮(にんなじのみや)を征討大将軍に任じ、薩長軍に錦の御旗を授けた。この瞬間、旧幕府軍は賊軍となり、中立を標榜していた諸藩が続々と薩長側に加わり、鳥羽・伏見の戦いは、旧幕府軍の敗北に終わった。

混乱のなか、消息を絶った

この大混乱のなか、山本覚馬は、消息を絶ったのである。会津の山本家では、覚馬は新政府軍に捕らえられ、処刑されたという悲報がもたらされた。

さらに、覚馬と八重には弟の三郎がいたが、この戦いで銃弾に倒れ、大坂から江戸に引き上げてきてまもなく息を引き取ったという一報が入った。まだ20歳の若さであった。山本家には、亡くなった三郎の遺髪と形見の服が届けられた。