SNSで聖書を面白くわかりやすく伝える活動をしている、上馬キリスト教会ツイッター部のMAROさん。
著書『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)はMAROさんの視点から旧約聖書および新約聖書の中に登場する「残念な人」や「残念な一面」を取り上げている。
現代にも見かける“残念な人”は約2000年前までに記された聖書にも存在していることがわかるとクスッと笑えるが、MAROさんは彼らを「自分を映す鏡」のように見て、自身を吟味するきっかけにしてほしいという。
「私たちは絶対に正しいし最高だ!と思い込む人々<バベルの塔>」から一部抜粋・再編集して紹介する。
昔からいた“己を神”と思う人
現代社会にはさまざまな考えや目的を持った集団がたくさんあります。そういう集団がたくさん現れて自由に活動することは民主主義社会の一つの大前提であって、とても良いことです。
しかし、中には「ちょっと困った人たちだな…」と思えてしまう方々もいます。たとえば「自分たちは絶対に正しくて最高だ!」と自認してしまっているような集団です。
世の中がそんな集団ばっかりになってしまったら、この世は争いだらけになってしまうでしょう。実際に現代社会では、あちらこちらでそんな方々同士の争いが起こっています。
「自分が、自分たちが、絶対に正しいのだ。だから絶対的な力を持つべきなのだ」と思うことは、世を破滅に導きます。だからこそ聖書はそれを「己を神としてはいけない」と明確に戒めています。
そして、大昔に書かれた聖書にそれが戒められているということは、大昔からそういう人たちはいたのだということです。誰もやらないことをわざわざ禁止する必要はないんですから、何かが禁止されるということはそれを行った誰かがいたという証拠です。
あの有名な「バベルの塔」は…
たとえば、バベルの塔を建てようとした人々は、そういう人たちの代表と言えるかもしれません。バベルの塔のエピソードは、クリスチャンではない方でも、多くの方がなんとなくはご存じなのではないでしょうか。