令和の今、「リスキリング」という言葉が広まり、政府なども力を入れている。

振り返ると幕末も「アップデート」や「リスキリング」が盛り上がった時代だった、というのは歴史学者の呉座勇一さん。

これまでの儒教の知識が通用せず、西洋の知識や技術を学ぼうとする若者があふれ、私塾も生まれた。

そんな中でなぜ江戸時代に儒教が流行したのか。著書『令和に生かす日本史』(扶桑社新書)から一部抜粋・再編集して紹介する。

江戸時代においての学問

江戸時代においては、学問とは、『論語』や『孟子(もうし)』などの経書(儒教の最も基本的な教えを記した書物)を学ぶことと同義であった。

儒学書は、天下国家を治める道を考え、自己の人格を磨くための書物である。良く言えば高尚な、悪く言えば堅苦しく面白味のない儒学書を、支配階層である武士ばかりか、町人や百姓までもが熱心に読んだのである。

同時代の中国や朝鮮のような儒教国家では、儒教を学ぶことは栄達の手段であった。

論語は儒教の経典である経書のひとつ(画像:イメージ)
論語は儒教の経典である経書のひとつ(画像:イメージ)
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官吏登用試験である科挙は儒学(厳密に言えば儒学の一学派である朱子学)の知識を問うものであり、高級官僚になるためには朱子学を修めるしかない。

逆に言えば、タテマエとしては、どんな家に生まれようとも、儒学を熱心に学び科挙に合格しさえすれば立身出世が可能だった。

なぜ江戸時代に儒教が流行?

ところが近世日本は身分制社会であり、人々の地位は世襲される。武士の子は武士になり、町人の子は町人になる。儒学を熱心に学んだところで、立身出世できるわけではない。藩校の教師になるという道はあるにはあったが、それとて薄給だった。

科挙のない江戸時代の日本において、経済的利益や社会的地位といった具体的メリットがないにもかかわらず、 儒学に励む人々が大勢現れたのはなぜだろうか。