元会津藩士・山本覚馬(かくま)。

NHK大河ドラマ『八重の桜』で主人公・山本八重(のちの新島八重)の兄だ。

その山本覚馬は、八重の夫であり、現在の同志社大学を設立した新島襄(じょう)の義理の兄となる。そして覚馬自身も、同志社設立に大きな役割を果たしたという。

しかし、幕末の覚馬は、砲術家・佐久間象山に入門し師と仰いでいた。その象山が殺されたのち、京都で長州藩と会津・薩摩藩が衝突。その戦いのなかで覚馬の視力は低下していく…。

覚馬の運命が変わろうとしていたエピソードを、歴史作家・河合敦さん著書『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社)から一部抜粋・再編集して紹介する。

京都で起こった武力衝突

象山が殺されて一週間後、ついに京都で長州藩と会津・薩摩軍が武力衝突する。この戦いで覚馬も出陣、鷹司(たかつかさ)邸に逃げ込んだ長州兵を撃退すべく、塀の角を狙って六斤砲を続けざまに撃ち込ませて破壊した。

ここから会津藩をはじめ、諸藩の兵が突入、邸内の長州勢を瓦解させたのである。翌日、覚馬や新選組は天王山に籠もった真木和泉(まきいずみ)ら十数名を討つべく、会津・桑名・彦根・郡山藩兵とともに現地へ向かった。

新選組は会津藩と行動を共にするが…(画像:イメージ)
新選組は会津藩と行動を共にするが…(画像:イメージ)
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新選組が先鋒として天王山へ登ったが、リーダーの真木は、近藤勇の姿をみとめると、大胆にも姿を現して名を名乗ったという。近藤もこれに応じて名乗りを上げた。すると真木は、詩を吟じた後、部下に命じて一斉射撃をお見舞いしたので、新選組はたじたじとなって退却した。

かわって覚馬が銃隊を率いて攻撃を展開、これに長州軍がひるむと、諸藩がいっせいに前進を開始した。もはやかなわぬと見た真木は自害して果てた。

この覚馬の奮迅の活躍によって、会津藩は大砲や洋式銃の威力を知り、覚馬を公用人に抜擢するとともに、会津藩の洋式軍への転換をすすめた。覚馬は勇躍し、丸太町橋東詰の畑を購入して練兵場をつくり、そこで毎日のように訓練をおこなわせたのである。

急速に低下していく覚馬の視力

公用人となった覚馬は、新選組を統括する立場となり、近藤や土方と親しく交わるようになった。

ただ、この頃の覚馬の視力は急速に低下しつつあった。禁門の変の砲撃戦で目を痛めたという説もあるが、緑内障などの眼病の可能性が高い。