江戸時代末期、多くの殿様たちは、260年以上続いた江戸幕府が、まさかあっけなく崩壊するとは夢にも思っていなかっただろう。

それまで統治者だった殿様たちの中には、領地も家臣も取り上げられ、新天地への移住を余儀なくされた殿様や、思わぬ大事件に巻き込まれてお家を取りつぶされたり、新政府に徹底してあらがった殿様もいた。

そんな激動の中に放り込まれた殿様たちについて解説した歴史研究家・河合敦氏の著書『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)。

今回は、改易状態から新天地での開拓に成功した名門仙台藩・亘理(わたり)伊達邦成(くにしげ)が明治の世でどのように翻弄(ほんろう)され、生き抜いたか一部抜粋・再編集して紹介する。(以下「 」内は河合敦氏)

藩の行く末を左右した仙台藩の決断

北海道伊達市。この地の礎をつくったのが、14代当主・伊達邦成なのだ。

亘理伊達家は伊達家の分家で、代々伊達宗家の藩政を補佐してきた。

新政府が誕生すると、特に江戸幕府についていた藩は、重い決断を迫られた。結果的にその判断によって、自身の藩の運命が分かれることになってしまった。

中でも、判断を誤ってしまったのが伊達邦成。亘理伊達氏は、新政府に敵対したこともあり禄のほとんどを収公されるが、のちに財政を好転させ、生き残りに成功した。

「幕末、尊皇攘夷派と開国派に分かれて争う藩が多かったものの、幕府を倒せると考えた者はいなかったはず。それが、慶応2(1866)年の長州征討で激変する。天下の徳川家が長州一藩に敗れたのだ。

結果、将軍・徳川慶喜は大政奉還を余儀なくされ、その一月半後の慶応3年、数藩のクーデターによる新政府が誕生し、鳥羽・伏見の戦いで徳川軍を撃破。敗れて朝敵となった慶喜は新政府に無条件降伏(江戸無血開城)してしまった。新政府は武力(戊辰戦争)で全国を統一(蝦夷地を除く)。このときに大きく道を誤ったのが東北の雄藩・仙台藩である」(河合氏)

伊達政宗を藩祖とする仙台藩は62万石。幕末の実収は100万石を超えていたといわれている。

戊辰戦争の当初、仙台藩は新政府に従う方針をとったが、新政府は朝敵となった会津藩や庄内藩を討伐するよう出兵を求めてきた。

しかし、仙台藩士の多くは佐幕の会津藩や庄内藩に同情的で、仙台藩は反政府の姿勢を明確にし、東北・北越諸藩を糾合した奥羽越列藩同盟の盟主の地位についた。

戊辰戦争に負けて、家禄が約400分の1に

「だが、列藩同盟軍は近代化した新政府軍に歯が立たず、負けが込んでくると、仙台藩士たちの戦意は萎え、あっさりと降伏してしまった。拍子抜けするような結末で、これを伊達政宗が知ったら嘆くだろう。

ただ、戊辰戦争は関ヶ原の戦いとは異なり、勝者が藩を潰すことはなく、そのまま存続を許した(請西藩のみ例外)。仙台藩も断絶は免れた。とはいえ、62万石の石高は半分以下の28万石に減らされてしまった。仙台藩には約3万人の武士(妻子は除く)がおり、一族や重臣には1万石を超える者たちもいた。亘理伊達氏もその一つだった。戊辰戦争時の当主は邦成だった」

戊辰戦争のとき邦成は28歳。戦後の処分で仙台本藩は大減封されたので、当然、亘理伊達氏の領地も減ったが、その減り方が尋常ではなかった。

亘理郡や宇多群など2万3千石の石高がたったの玄米130俵(58石5斗)になってしまったのだ。ほとんどお家取り潰しといってよい無慈悲な措置であった。

家の宝物も売り払い、家臣と北海道開拓へ

さらに、亘理郡など邦成の支配していた地域は、仙台藩領ですらなくなってしまった。20万石から13万石に減らされた南部藩が新たに入封することに決まったのだ。

仙台藩の藩祖・伊達政宗の公騎馬像
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邦成には家臣が1361人おり、家族を含めると7854人にのぼった。もし旧領が仙台本藩内であれば、たとえ無禄になっても家屋敷は残り、そこに住み続けることが許されたはず。けれど領内には南部藩士たちが入ってくるため、立ち退かなくてはならない。もちろん、南部藩に亘理の家士を雇用できる余録などない。

そんな中、家老の田村顕允(あきまさ)が、蝦夷地を開拓すると土地支配と武士としての身分が許されるという話を聞いてきた。すると邦成は、家中を引き連れて新天地へ向かうことを即断したのだ。

新政府から許可を得て有珠(うす)郡の「モンベツ(紋鼈)」を開拓することに決めた邦成は、明治3年男女250名からなる第一次移住団とともに室蘭港へ到着した。

1年間困らないだけの米などを各自に用意させたが、250名が渡航するための旅費一切は、亘理伊達家で支払うことを約束し、実際に邦成はそのために先祖代々の宝物を売り払っている。

この移住は単身者(成人男性)のみは認めず、必ず夫婦または家族が同行することを家臣に求めた。苦しさに耐えかねて国元の家族のところへ戻ってしまうことを事前に見抜いたのであろう亘理伊達家首脳部が、それを防ぐため、家族移住を強要した。

また、第三次移住団では、妻の豊子と義母の保子(前仙台藩主の妹で当時45歳)も「開拓に尽くしたい」と有珠郡へ渡ってきた。

藩が消滅!開拓も暗礁に…

「保子は家臣たちから慕われており、亘理伊達氏開拓団の志気が大いに上がった。ただ、前当主の正妻の住処といっても、到底屋敷などとは呼べない小屋のような粗末なつくりで、床も荒むしろを敷いただけであった。

また、食器もろくに手に入らず、帆立の貝殻を皿代わりに使用しなくてはならなかったという。家臣たちの暮らしは、さらに悲惨だった。じつは第三次移民団が到着した頃、邦成の開拓事業は頓挫しかけていた。

前年がたいへんな凶作で、なおかつ、港での漁獲量もかんばしくなかった。そのため大根や芋を食い尽くしたうえ、蕗(ふき)を食べて飢えをしのいでいる状況だったのである」

そんな中でも邦成は家臣に対して相互扶助する体制をとり、その中にはアイヌへの配慮も含まれた。昔からこの地に住む彼らの協力なしに開拓がうまくいかないことを知っていたのだろう。

第三次移住団がやってきた5カ月後、全国に衝撃を与える出来事が起こった。

廃藩置県が断行され、地上から藩が消滅してしまったのだ。

後編では、藩が消滅した後も続いていった家臣との絆となぜ亘理伊達家の家臣団だけが北海道の開拓に成功したのかを追う。

『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)河合敦著
『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)河合敦著

河合敦
歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史~新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史』『殿様は「明治」をどう生き抜いたのか』シリーズ(ともに扶桑社)などがある

河合敦
河合敦

歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史~新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史』『殿様は「明治」をどう生き抜いたのか』シリーズ(ともに扶桑社)などがある