現在の東芝(旧芝浦製作所)の礎を築いた発明家・田中久重。

彼は“カラクリ儀右衛門”と呼ばれ、万年時計や蒸気船を自作し、大名たちの度肝を抜いた。

職人の子として生まれ、のちに久留米藩士の地位を得た久重。持ち前の才覚でからくり人形から発明品を販売してヒットを生み出す一方で、50歳でも暦学や天文学など勉強を怠らなかった。

そんな久重が万年時計や蒸気船を自作して佐賀藩に認められるまでの歩みを、歴史作家・河合敦さん著書『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社)から、一部抜粋・再編集して紹介する。

きっかけは16歳のとき

田中久重は、もともと武士ではない。のちにその才覚によって士分を得たのである。寛政11年(1799)に鼈甲細工(べっこうざいく)職人の弥右衛門の子として生まれた。

その家柄もあって、少年時代からカラクリ箱や簞笥などをつくりはじめ、やがてカラクリ人形の製作に没頭するようになる。16歳のとき近所の五穀神社にカラクリ人形舞台を奉納したのがきっかけだった。長男だったが、家業は弟の弥市にゆずり、自分は生家の2階で寝る間を惜しんで人形づくりに熱中した。

26歳の文政7年(1824)、久重は自分の力量を試そうと、妻の与志や弟子をともない、佐賀や熊本でからくり人形の興行を打ち、さらに大坂道頓堀の芝居小屋を借りて、水仕掛けの舞台を備えた人形活劇を披露した。

興行は大盛況となり、多いときには一日一万人を超えたという。

その後、久留米に戻って人形づくりと地元での興行で生計を立てていたが、36歳の天保5年(1834)、思い切って大阪に拠点を移した。手先が器用だったので、これからは人形興行ではなく、発明品を売って生きていこうと決意したのだ。

まずは懐中燭台なる道具を売り始めた。見た目は手のひらサイズの扁平な菱形の真鍮板だが、板には切れ目が入っており、持ち上げるとするすると上に伸び、三枚脚の燭台(ロウソク立て)に早変わりした。旅人にとって非常に便利な品だったので、たちまちヒットした。