この時期、久重は精巧な時計をつくろうとしており、時計に西洋の最新技術を取り入れたいと考えたのだ。広瀬は20歳も年下だったが、その人徳に感激した久重は妹のいねと結婚させ、義兄弟となった。
万年時計、消火器などを発明
翌嘉永5年、西洋時計や和時計、天球儀など、いくつもの機能を兼ね備えた「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」(万年時計)を創り上げた。一度ゼンマイを巻くと、400日は正確に動き続けるという、到底、ほかの職人に真似できない精密機器であった。
大名たちが「譲ってほしい」と申し入れてきたが、久重は売らなかった。その後も久重は10メートル以上も水が飛ぶ消火器を発明したり、本を参考に蒸気船の模型などを造り上げたりした。
すでに欧米では蒸気船や蒸気機関車が走っていたが、この頃、日本にも蒸気機関の仕組みを記した西洋の書籍が入ってくるようになった。久重は時習館で知識を仕入れたのか、造作もなく木造の蒸気船(外輪式とスクリュー式を一隻ずつ)を水に浮かべて動かしてみせた。
この驚くべき手腕を知った佐賀藩は、田中久重を招聘することに決めた。
佐賀藩では藩主の鍋島直正が軍事力を強化すべく、約20年前から西欧の科学技術の導入を推進していた。天保3年(1832)にカノン・モチール(洋式大砲)の研究を開始、実際に銅製砲を鋳造。
さらに量産できる鉄製大砲をつくる目的で、鉄を大量に熔解・精錬できる西洋の反射炉の建設に乗り出した。まずは反射炉製法が記してある『王立ロイク(リェージュ)鉄製大砲鋳造所における鋳造法』(ヒュゲーニン著)を家臣で蘭学者の伊東玄朴(げんぼく)と弟子の杉谷雍介に翻訳させ、嘉永2年(1849)から「御鋳立方(いたてかた)」(本島藤太夫をリーダーとする専門家八名)に建造を命じた。