さらに今度は、時計の修理・販売をはじめた。当時、大坂では大野牧方が製作する時計(和時計)が人気だったが、久重はその時計を分解して仕組みを理解すると、大野から失敗作を廉価で買い取り、それを修理して販売するようになった。
その時計は壊れないと有名になり、注文が殺到して生活が安定した。
大塩平八郎の乱を機に売り出したもの
ところが、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱で大坂が大火となり、屋敷と商品が焼けてしまったのである。そこで仕方なく、京都郊外の伏見に店を移し、今度は大々的に無尽灯を売り出した。
これは、銅製の行灯(ランプ)であった。圧搾空気の力で自動的に空洞パイプに油が補給される仕組みになっている。また、灯心の周りはガラスで保護されているので、風で火が消える心配がないのだ。
しかもロウソクの十倍の明るさがあり、明暗の調整もできる優れものだった。値段は高かったが、画期的な商品なので異例の大ヒットとなり、久重は多数の職人を雇って量産するようになった。
こうして生活に余裕ができた久重はすでに50歳近くなっていたが、幕府天文方の戸田久左衛門から暦学や天文学を学びはじめた。
さらに天文暦学の最高峰、京都の土御門家にも入門し、わずか50日余りですべての知識を修得。嘉永2年(1849)、土御門家の推挙で朝廷(嵯峨御所大覚寺宮)から「近江大掾(おうみのだいじょう)」という職人の最高位階を与えられたのである。
2年後の嘉永四年、久重は機巧堂(からくりどう)という店を開いたが、同年、師の戸田の紹介で広瀬元恭(げんきょう)の私塾「時習館」に入学した。広瀬は有名な蘭学者で、京都に種痘を広めて多くの命を救った医師でもあった。