2025年は「戦後80年」の年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。太平洋戦争開戦前、「アメリカとの戦争に勝ち目はない」と分析した陸軍の研究班「秋丸機関」が存在した。中心人物は宮崎県えびの市出身の秋丸次朗氏。息子や研究者の証言、そして貴重な資料から、現代社会への教訓を探った。
父は「秋丸機関」の中心人物だった
「私が生まれたのは満州。親父は出征しとった。南方に」 こう話す秋丸信夫さん(87)は、終戦の半年前、6歳の時に、父・次朗さんの出身地である宮崎県えびの市に疎開した。父親に関する記憶はほとんどないという。

信夫さんの家には、昔から古い写真があった。なぜ、こんな写真があったのか。のちにその写真から、父・次朗が「秋丸機関」の中心人物だったことを知る。信夫さんは、「こえたん(農具)を担いでるおじさんが、戦争をするかしないかの調査をすると思う?」と、当時の驚きを語った。
「秋丸機関」とは…

秋丸機関、正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」。1940年1月、日本・アメリカ・イギリス・ドイツなど主要国の経済力を調査・研究するために設立された。

その中心人物が、信夫さんの父・秋丸次朗さん。陸軍省戦争経済研究班の班長だったことから、「秋丸機関」と呼ばれるようになった。

飯野村、いまのえびの市に生まれた次朗さんは、関東軍の経済参謀として満州へ。 その後、秋丸機関創設のため日本に呼び戻された。
東京大学に保管されている「調査報告書」

森山裕香子記者:
東京大学に来ている。こちらには、太平洋戦争開戦前、秋丸機関がまとめた調査報告書が保管されている。

報告書は東京大学経済学部資料室に保管されている。取り出された資料は2つ。「英米合作経済抗戦力調査」の「其一」と「其二」。 「其二」には、「極秘」「陸軍省戦争経済研究班」の文字。 色褪せることなくしっかりとそう書かれている。 秋丸機関が約1年半かけてイギリスとアメリカの経済力を調査し、戦争の見通しをまとめた報告書だ。

「其一」にはイギリスとアメリカの経済力の大きさが、「其二」には弱点が記されている。日本の経済力と分析・比較し、「アメリカとの戦争に勝ち目はない」と導き出していた。にもかかわらず、日本はアメリカとの戦争に突入していった。

秋丸機関について研究している慶應義塾大学 経済学部の牧野 邦昭教授はこう話す。
慶應義塾大学経済学部 牧野邦昭教授:
(当時)みんながある程度の正確な情報がわかっていたのにもかかわらず、戦争へと向かっていってしまったことを知るうえでの重要な資料だと思う。
晩年に心情を明かした秋丸次朗

秋丸機関について、次朗さんは長い間、語ろうとしなかったが、終戦から34年がたった81歳の時に、その時の心情を明かしている。
「すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては都合の悪い結論であり、消極的平和論には耳を貸す様子もなく」

「大勢は無謀な戦争へと傾斜したが、実情を知るものにとっては薄氷を踏む思いであった」
「陸軍は秋丸機関の調査を無視して開戦に踏み切ってしまった」とされてきた。
これに対し牧野教授は「報告書は正確に戦争の困難さを指摘していたものの、別の形で解釈され、開戦の判断材料になってしまった」と分析する。
應義塾大学経済学部 牧野邦昭教授:
「日本は、近代に入ってから負けたことがなかった。負けたことがなかったからこそ、最悪の結果を想定できなかった。我々は最悪の結果を知っているからこそ、戦争をしないということを戦後ずっと続けてきた。正しい情報を得るだけではなくて、それをどう使うかという問題が、一番重要なのではないだろうか」
戦後の次朗さんは…

次朗さんは戦後、公職追放を経て、飯野町長を2期、えびの市の社会福祉協議会の会長を13年務めた。信夫さんは「戦争の遂行を止めることができなかったから、別のところで国に貢献しようとしたのではないか」と推測する。

信夫さんは新聞記者を定年退職後、ブログで秋丸機関について発信してきた。
秋丸信夫さん:
「正史じゃないんでしょうね、傍史なんでしょうね。大東亜戦争という戦争の始まりから終わりまでずーっとあって、その中のほんのわき道。でも、そういうこともあったということも、知ってもらいたい。」
秋丸機関が今に伝えるメッセージとは
牧野教授は、「真剣な情報発信は、結果としては役に立たなかった。なぜ役に立たなかったのか、希望的観測に飲み込まれてしまったのはなぜかを、反面教師的に活用していくのが、秋丸機関を調べていく現代的意義だ」と語った。
森山記者は、「戦争は遠い話だと感じていたが、情報の捉え方次第で戦争になってしまうと感じた。秋丸次朗さんは晩年、『後世の為に何らかの価値あることを』と経験を綴った。正確な情報があっても、戦争に突入してしまった過去を、繰り返さないようにしなければならない」と締めくくった。
(テレビ宮崎)