2024年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会、通称被団協。宮城にも、被団協の代表理事を務めながら、語り部活動を続け、8歳で被爆した自らの体験を伝える人がいる。身体的にも精神的にも負担のかかる語り部を続ける理由には、使命感と後悔、そして次の世代への期待があった。
「8月6日8時15分、その時から私の人生が変わってしまいました。」
1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が落とされた。その年のうちにおよそ14万人が亡くなったと推計されている。

宮城県内在住の被爆者で作る「宮城県原爆被害者の会」の会長で、被団協でも代表理事を務めている木村緋紗子さん。毎年、仙台市内で原爆に関する展示会を開催しているほか、宮城県内を中心に全国で語り部活動をし、自らの被爆体験を伝え続けている。
木村さんは8歳の時に爆心地から約1.6キロの祖父の家で被爆した。倒壊した家屋の下敷きになった木村さんは助け出されたが、内科医としてより爆心地に近い場所で往診中だった父と、庭にいた祖父が犠牲となった。
木村さんの父は原爆投下から3日後、木村さんの母と再会し、「無念だ」と言い残して亡くなった。生きて再び木村さんと会うことはなかった。
「もう早く祖父死んでくれって、私思ったんです」

がんや骨粗しょう症など複数回の手術を経験し、足には障がいを抱えている木村さん。
そんな体を押して、思い出すだけでも涙があふれるほどつらい被爆体験を伝え続けているのには、様々な思いがある。
「無念だ」という父の最後の言葉。戦争という悲劇を自分の子供や孫たちに体験させたくないという思い。そして、強い自責の念。

木村さんの被爆体験をもとに、広島の高校生が描いた1枚の絵がある。
全身にやけどを負い、被爆から1週間にわたって苦しんで亡くなった木村さんの祖父・孝造さんと、その看病をする木村さんといとこの姿だ。
木村緋紗子さん:
熱線にあたってそして膿んでしまっちゃってそして膿が出てくる。そこにハエがたかって蛆がわく。その蛆虫を一生懸命これ取っているんです。
被爆した祖父は、木村さんの知る祖父の姿ではなかった。全身が焼けただれ、当時の木村さんの目にはまるで鬼のように映った。

懸命に祖父を看病した木村さんだが、8歳の少女にはあまりにつらい現実だった。看病の最中、図らずも頭によぎったある思いを、今も悔やみ自分を責めている。
木村緋紗子さん:
もう早く祖父死んでくれって私思ったんです。そういうことを考えたということを、申し訳ない、祖父だけでなく、あの時に亡くなった方たちみんなに申し訳ないという気持ちで、私はいま一生懸命頑張っているわけです。
生死の境をさまよう祖父に対して抱いてしまった負の感情。戦争の残酷さ・愚かさを伝えるのは自分に課せられた使命だと思っていると話す。
木村緋紗子さん:
あの時に我々は何もしていないわけですよ、悪いことなんて。それにも関わらずこういう目に合わなくてはならないというのが、非常に悔しい。
「先人たちのことを思うと喜べない」
2024年10月、この年のノーベル平和賞に被団協が選ばれたことが発表された。

発表の直後、木村さんは自宅で報道陣のインタビューに答えた。
木村緋紗子さん:
がっかりさせられた。何年、本当に何十年、ずっとそうだったんです。
ノーベル平和賞の候補として毎年名前が挙がりながらも、受賞には至らなかった経緯を踏まえ、この日の木村さんが語ったのは受賞を素直には喜べないという気持ちだった。
木村緋紗子さん:
先人たちのことを思うと喜べないよね。もっと早く、やっぱりほしかった。残念。でもよかったっていうことです。それしか言えないです。
かつて共に活動していた仲間の多くが、すでにこの世を去ってしまった。もっと受賞が早ければ、ともに喜びを分かち合うことができたはずの仲間たちを思うと、複雑な心境だった。
この日の時点では、体調のこともあり、授賞式への参加は決めかねていた。
「亡くなられた方の思いを抱いて」

受賞の発表から1カ月あまり経ったある日。木村さんは、「核兵器廃絶ネットワークみやぎ」の集会に出席し、その思いを参加者に語った。
木村緋紗子さん:
亡くなられた方たちの思いを抱いて、12月10日に開催されるオスロでの授賞式に、私も参加いたします。いろいろと迷いましたけれど、私が行かなければ誰が行くと。
受賞の発表から自分の気持ちを見つめ直し、式典への参加を決めた。
先立って行った仲間を思えばこそ、彼らの思いもともに連れていくことが、自分の使命だと感じたという。

そうして迎えた、授賞式のため仙台を出発する日の朝。仙台駅でインタビューに答えた木村さんは、ある不思議な体験を語った。
木村緋紗子さん:
目が覚めた時に、古いお友達がみんな私に寄ってきたんです。
この日の朝、ともに活動をしてきて、先立っていった仲間たちに起こされたのだと言う。
木村緋紗子さん:
連れていくよ、っていう感じ。核兵器廃絶と戦争をやめましょうということを、伝えてきます。
ともに戦ってきた仲間たちの思い、「無念だ」と言い残した父の思い、苦しんで亡くなった祖父の思い。たくさんの人たちの思いを連れて、木村さんはノーベル平和賞の授賞式に臨んだ。
「若い人たちに、今後どうしたらいいかって考えてほしい」

授賞式が行われたノルウェーで、木村さんは授賞式や晩餐会に出席しただけでなく、国際NGOの関係者に被爆体験を語った。当初は現地メディアへの対応を予定していたが、木村さん自身が現地での証言活動を希望した。
戦争を経験していない世代がほとんどになっていく中で、木村さんは、次の世代に伝えることを大切にしている。
木村緋紗子さん:
やっぱり若い人に話を聞いてもらいたいです。そして(話を聞いた)若い人たちに今後どうしたらいいかって考えてほしい。
広島の記憶が、宮城から世界へ、世代を超えて語り継がれている。
仙台放送