かつては、江戸幕府が身分秩序を正当化するために、主君への忠義を重んじる儒学を積極的に奨励したから、と考えられていた。
しかし研究の進展により、儒学は単なる外国の知識として受容されたにすぎず、人々の日常生活を律する規範として日本社会に浸透、定着することはなかったことが明らかにされている。
一例を挙げれば、親への「孝(こう)」を重んじる儒教においては、親が亡くなったら3年喪に服すというルールが重視されたが、江戸時代の日本人でこのルールを実行した者など皆無に等しい。
儒学者が考える理想の社会と、近世日本の実態は懸け離れていた。
儒学者が「儒学によれば、本当はこうあるべきだ」と唱えたところで、誰も従わない。儒学者にできることは、理屈をこねて、儒学の理念と社会の現実との間のギャップを埋めるという知的遊戯に留まった。要はこじつけだ。
「聖人」を目指したかった?
江戸時代の身分制度が「士農工商」であったという主張は実態に即しておらず、日本の儒学者が儒学の基本用語である「士農工商」を近世日本に無理やり当てはめただけというのが真相である。
ではなぜ、江戸時代の人々は儒学を学んだのか。日本思想史学者の前田勉氏によれば、逆説的ではあるが、強固な身分制社会であり学問による立身出世が不可能だったからこそ、儒学に没頭する者が現れたという。
儒学の中でも朱子学は性善説(人間が天から与えられた本性は善であるという考え)に立ち、誰もが研鑽を積むことで「聖人」(道徳的に完璧な人格者)になれると説いた。
不平等な身分制度の世界に不満を抱く人々にとって、人間は本質的に平等であり、凡人であっても努力することで聖人になれるという考えは魅力的だったに違いない。
朱子学は人格を磨くための学問であるから、富や名声を求めることは「聖人」の道に反することとして批判される。だが中国や朝鮮では、朱子学を修めることで富や名声を得られるので、社会的成功を求めて朱子学を学ぶ者が少なくない。
経書の文章を丸暗記するような試験対策が盛行し、朱子学の理想である「聖人」とは懸け離れた欲深い受験秀才が人の上に立つ。ここに儒教国家たる中国・朝鮮の矛盾があった。
これに対して、近世日本では、朱子学を修めても世俗的な利益は得られない。だからこそ、純粋に「聖人」の道を追い求めることができた。現代の「意識高い系」が求める自己啓発的な学びとは対照的といえよう。

呉座勇一
国際日本文化研究センター准教授。1980年、東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程終了。博士(文学)。東京大学大学院人文社会系研究科研究員、東京大学大学院総合文化研究科学術研究院などを経て現職。日本中世史専攻。著書に『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新聞出版)、『頼朝と義時』(講談社現代新書)、『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)、『動乱の日本戦国史』(朝日新書)、『日本史 敗者の条件』(PHP新書)、など多数。