熊本城の築城に携わったのが戦国武将のひとり、加藤清正。
清正の銅像は熊本城の近くにあり、その姿はまるで戦いの陣中に座っているかのようだという。
なぜそんな姿で熊本を見守っているのか。
小学校の教師として授業で道徳を教える際に、さまざまな銅像を題材にして、学びを深めていたという、丸岡慎弥さん。著書『銅像が教えてくれる日本史』(扶桑社新書)から一部抜粋・再編集して紹介する。
熊本城の築城に携わった名将
加藤清正の銅像は熊本城の側(そば)にあります。なぜ熊本城に加藤清正の銅像があるのかと言えば、加藤清正は名武将でありながら大変優れた城郭建築家でもあったからです。
名古屋城、また江戸城や大坂城、そしてこの熊本城までも加藤清正が築城に携わっています。どの城も誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。
武将と聞くと「戦いに強い」「人情に厚い」などのイメージが湧くと思いますが、この加藤清正はただ強いだけではなかったのです。
熊本城の城下町の区分けは、今の熊本の町の大元となっています。いわば熊本の祖と呼んでもいいのかもしれません。加藤清正の銅像は、甲冑(かっちゅう)と長烏帽子(ながえぼし)姿で熊本城を背に、戦いの陣中に座っているかのような姿です。
その姿はまさに熊本全体を見守っているかのようです。甲冑は、武将が戦いのときに着用する日本の伝統的な防具です。そして、長烏帽子とは、銅像を見てもわかるように、丈の長い帽子のことをいいます。甲冑に長烏帽子をまとった加藤清正はなんとも堂々とした姿です。
なお、地元では清正を「清正公(せいしょこ)さん」と呼び、土木・建築の神様としても親しまれています。清正は治山治水にも能力を発揮して、新田を開発したり、多くの堤防を作ることにより、住民を水害の恐怖から守るとともに、暮らしを豊かにしたのです。
それでは、加藤清正はどんな人物だったのか、そしてなぜこのような格好で熊本を見守っているのかをお話ししていきます。
幼少の頃から勇猛果敢
清正は尾張国(現在の愛知県)で生まれました。幼名を夜叉丸(やしゃまる)といいますが、ここでは清正と呼び名を統一します。彼には、幼少の頃からすでに武将としての優れた能力を示すエピソードが残されています。清正が十歳のときのことです。
