改革者や異端児という言葉が並ぶ戦国武将・織田信長だが、実は一流の経済的な感覚を持っていたという。

歴史学ブームの火付け役となった『応仁の乱』の著者である呉座勇一さんの『令和に生かす日本史』(扶桑社新書)。織田信長、西郷隆盛ら偉人の生き方を考察する「人生編」と改憲問題や武士道などの観点で日本社会の問題を斬る「社会編」から、令和の現代におけるビジネスのヒントや生き方を投げかけている。

今回は、経済と軍事の両面を重視した信長流の経済政策を、重臣・豊臣秀吉や柴田勝家はどのように理解し、支配する土地で応用したかを、一部抜粋・再編集して紹介する。

統治は重臣に委ねた信長

さて、楽市楽座と関所撤廃の二枚看板によって経済を活性化させた信長だが、それを間近で見ていた重臣たちはその経済政策をどのように引き継いでいったのだろうか。

多くの征服戦争によって信長の支配地域が拡大するにつれ、信長がすべての地域を直接管轄することは不可能になった。そこで信長は、羽柴秀吉や明智光秀、柴田勝家らの重臣に地域支配を委任した。

秀吉らの職務は俗に「方面軍司令官(ほうめんぐんしれいかん)」と呼ばれる。

秀吉は中国方面軍司令官、光秀は近畿方面軍司令官、勝家は北陸方面軍司令官、ということになる。彼ら重臣は征服地に信長の代官として乗り込み、軍事だけではなく行政も担当した。

信長は重臣による支配開始当初は、「国掟(くにおきて)」と呼ばれる大まかな施政方針を示したが、その後は重臣に統治を委ねた。

重臣たちは信長の意向を忖度する必要があったものの、いちいち信長にお伺いを立てず、独自の意思と判断で支配を行うことができるようになった。

柴田勝家の一乗谷での政策

まずは、柴田勝家の経済政策を見てみよう。