脱北者団体が金正恩委員長を批判するビラをまいたことをきっかけに、南北共同連絡事務所を爆破するなど韓国への強硬姿勢を強めてきた北朝鮮。ところが6月24日、金正恩委員長が出席する朝鮮労働党中央軍事委員会予備会議で、対韓軍事計画を保留する事が決まった。

朝鮮半島の緊張を一方的に高めてきた北朝鮮が、なぜ突然立ち止まったのか?北朝鮮の狙いは何なのか?私たちは、長年北朝鮮の情報機関に所属し、金正日総書記の指示を受けて作戦計画を立案した経験もある、高位脱北者の男性に分析を依頼した。

綿密に計画された戦略

金委員長は今回の「戦略」により、最小のリスクで多くの利益を得たという
金委員長は今回の「戦略」により、最小のリスクで多くの利益を得たという
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ーーなぜ北朝鮮は軍事計画を保留したのでしょうか?

今回北朝鮮が軍事計画を諦めたのだと多くの北朝鮮専門家やメディアが分析していますが、そう見るのは正確でないと思います。軍事計画を諦めたのではなく、一連の動きは事前に綿密に作成・計画された上で実行された、完結した戦略だと見るべきです。この戦略により、北朝鮮はすでに多くの価値を得ることに成功しました。

その価値とは、
・金与正(キム・ヨジョン)党第一副部長を前面に出す形で南北連絡事務所を破壊し権威付けに成功
・南北関係破綻を宣言
・脱北者の韓国での社会的地位の最小化および生存不安をかき立てた
・南北関係を主導するのは北朝鮮であることを印象付ける

これら多くの価値を少しのリスクや負担もなしに、北朝鮮が取得したということです。軍事行動という変数を持ち出したのは、注目度を高めて、政治的効果を最大化するためです。

高位脱北者は今回の「戦略」は与正氏ではなく金正恩委員長が裁可したと見ている
高位脱北者は今回の「戦略」は与正氏ではなく金正恩委員長が裁可したと見ている

この分析の根拠は、今回事態が進行した過程にあります。
今回、統一戦線部は朝鮮人民軍総参謀部に作戦計画の立案を求め、総参謀部はその作戦について朝鮮労働党の軍事委員会に批准を求める形を取りました。まずこのプロセスにより事態が動くスピードを遅くし、長期間相手(韓国)を緊張させ、内外の関心を最高に高めさせました。

今まで北朝鮮では、こうした過程を公開しながら、物事を進めたことは一度もありませんでした。つまり、事前に深く計画された戦略によるものということを、客観的に物語っています。最初からよく計画された案が金正恩委員長の裁可を受けて、金与正氏を前面に出して進行されたと見るべきだと思います。こういう物々しい計画案を金与正氏が一人で勝手に計画して進めることは絶対にできません。

今回軍事計画が保留されたということは、事前の計画立案通りだったと言えます。なぜなら、(与正氏の指示を受けて)統一戦線部という党の部署が軍に依頼して作成された軍事計画を、党の軍事委員会が保留するということは、党内の統一や団結を誇りとする北朝鮮では、有り得ないことだからです。党の内部で意見が分かれる事は、金委員長の恥となります。言い換えれば、金委員長が決めた事前の戦略通りでなければ、党主導の軍事計画を党が保留するという事態は絶対に起きえないのです。

党軍事委員会による保留という点は今後を予測する上で不確定要素になります。結論としては、軍事計画を諦めたのではなく、事前に綿密に計画された戦略だと見るのが正しいと思います。

「韓国は北朝鮮に追従する」

一連の「戦略」における目標は、内外における金委員長の地位を見せつけることだという
一連の「戦略」における目標は、内外における金委員長の地位を見せつけることだという

ーー北朝鮮の目的は何なのでしょうか?

今回の北朝鮮の最大の目的は、共同連絡事務所の爆破、対南ビラ散布計画、軍事計画のような“力”をともなう威嚇を通じて南北関係破綻宣言を進めることにより、金委員長の地位の高さを内外に改めて強く刻印させる事です。

今回、金委員長はごく僅かなリスクも負担も負うことなく、綿密に計画された全ての戦略を順調に進めました。一言で言えば、金委員長は今回の戦略により確実に南北関係を主導していて、韓国は北朝鮮に追従するということを、様々なニュースを通じて世界に刻印させました。
特に2018年に行われた文在寅大統領との3度に渡る南北首脳会談を通じて「騙された」「やられた」との憤りを、南北関係破綻という強い手で文大統領にお返ししたのです。

すでに金委員長は2019年4月の最高人民会議施政演説で文大統領に対する評価を下しています。(筆者注:金委員長は演説で「南朝鮮(韓国)当局は、周囲の様子をうかがいながら、(米朝の)『仲介者』などと差し出がましいことを言うのではなく、堂々と民族の利益を擁護する当事者となるべきだ」と発言)

現在に至るまで南北関係は一歩の進展もなく冷却期になっています。それでも満足することは出来ず、金委員長は文大統領に南北関係破綻という宣言を下し、個人的怒りの復讐をしたのです。今後金委員長は、南北関係を「互いに干渉しない関係」だと主張するでしょう。これは、北朝鮮ではすでに変更されていた通りの対南戦略です。今回の機会がその出発点になるでしょう。

また、北朝鮮人民の脱北を防止するという観点から、韓国での脱北者の立場を弱体化させ、韓国人の脱北者に対する不安や不信を増加させる目的もあります。韓国内の分断を最大化する狙いも見えます。

総体的に言えば、今回の北朝鮮の戦略は、朝鮮労働党創建75周年記念日(2020年10月10日)という節目を控えて進められた、南北関係に関する事業の一環と見れば良いでしょう。

※次回は「北朝鮮の次の一手」「核戦略の変化」について高位脱北者が分析する

【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】

渡邊康弘
渡邊康弘

FNNプライムオンライン編集長
1977年山形県生まれ。東京大学法学部卒業後、2000年フジテレビ入社。「とくダネ!」ディレクター等を経て、2006年報道局社会部記者。 警視庁・厚労省・宮内庁・司法・国交省を担当し、2017年よりソウル支局長。2021年10月から経済部記者として経産省・内閣府・デスクを担当。2023年7月からFNNプライムオンライン編集長。肩肘張らずに日常のギモンに優しく答え、誰かと共有したくなるオモシロ情報も転がっている。そんなニュースサイトを目指します。