存在感際立った金与正氏

北朝鮮の金正恩総書記は8月10日、平壌で開催された「非常防疫総括会議」で演説し、約3カ月にわたった新型コロナウイルスとの闘いに勝利を宣言した。

「われわれが収めた高価な勝利はわが党の防疫政策の勝利であり、わが国家の危機対処戦略の勝利であり、わが人民特有の強靭さと一心団結の勝利であり、朝鮮式社会主義の制度的優越性がもたらした偉大な勝利です」

また、金総書記は新型コロナのワクチン接種が実施されていないにもかかわらず、短期間にウイルス撲滅に成功したのは「奇跡」だと強調した。

非常防疫総括会議で演説する金正恩総書記(8月10日)
非常防疫総括会議で演説する金正恩総書記(8月10日)
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この日の会議で金総書記以上に注目を集めたのは妹の金与正(キム・ヨジョン)氏だった。

他の登壇者が非常防疫関連の各部署の責任者であったのに対し、与正氏は「党中央委員会副部長」の肩書だけで紹介された。

与正氏はこれまでも米国、韓国に向けて、金総書記の意見を代弁する形でたびたび談話を発表してきた。2021年6月の党政治局拡大会議では「一部幹部が新型コロナ対策で党の重要決定を怠った」とし、批判討論者の一人として発言したが、演説する肉声が公開されたのは今回が初めてとなる。

与正氏は2020年まで党組織指導部第1副部長で政治局員候補だったが、2021年1月の党大会で宣伝扇動部副部長に降格された。他の登壇者に比べ序列上は格下と言わざるを得ないが、発言内容や存在感では他を圧倒していた。

兄のリーダーシップを全力で礼賛

非常防疫総括大会で演説する金総書記の妹・金与正氏
非常防疫総括大会で演説する金総書記の妹・金与正氏

「(金総書記が)単身で危機の前に立たれ、時には当惑なさり、残念がったりもしながら、それほどまでに耐え忍ぶ姿を見る時、心がつらく、一身に負ったその重荷を減らせないことに胸を痛めた瞬間を忘れることができません」

「この防疫戦争の日々、高熱の中にひどく病みながらも自身が最後まで責任を負わなければならない人民たちを思い、一瞬も横になれなかった元帥様(金総書記)」

「自分の運命をかけて、命まで差出し守ってくれる、このような指導者が守って下さるからこそ、私たちは防疫戦争でも奇跡を創造することができました」

演説の前半部分で与正氏は声を震わせながら、兄である金総書記を、言葉を尽くして礼賛した。危機的状況にあって金総書記がいかに献身的にコロナ防疫に取組んできたか、金総書記の力になれず見守るしかなかった自身の辛い心情にも言及し、聴衆に訴えた。

さらに、金総書記が新型コロナ感染によると見られる高熱に苦しんだことも明らかにした。与正氏が金総書記の苦労に言及すると、会場の各所で涙を流す人々の姿がテレビに映し出された。

与正氏の演説を聞き、涙ぐむ聴衆
与正氏の演説を聞き、涙ぐむ聴衆
与正氏の演説を聞き、涙ぐむ聴衆
与正氏の演説を聞き、涙ぐむ聴衆

人民のために自己を犠牲にする最高指導者の姿を強調するのは、北朝鮮におけるプロパガンダの定番であり、与正氏は巧みな演説で聴衆の心を捉えたと言える。

さらに与正氏は、非常防疫体制の91日間に金総書記が直接指示したいわゆる「領導(指導)文書」が1172件、2万2956ページに達したと具体的な数字を挙げて、兄のリーダーシップを褒め称えることも忘れなかった。与正氏が所属する党の宣伝扇動部は、この間、未明に開催された対策会議の模様を翌朝には報道し、治療方法や医学常識を紹介する編集物も多数放映するなど、総力を挙げてコロナ防疫の宣伝扇動活動に取組んできた。

与正氏は宣伝扇動部副部長として、まさにその先頭に立ち人民の間に動揺が広がらないよう徹底したプロパガンダを展開したのだ。

なぜ今、肉声演説を公開?

演説の後半、与正氏は一転して語気荒く、韓国を批判した。

与正氏は新型コロナウイルスの北朝鮮流入は、脱北者団体が北に送った「ビラと貨幣、汚らわしい小冊子、品物」などに付着していたことが原因だとして、韓国への報復を呼びかけた。

「私たちは必ず強力な対応をしなければならない。すでに色々な対応案が検討されているが、対応も非常に強力な報復性対応を加えなければならない」

与正氏は文在寅(ムン・ジェイン)政権当時の2020年6月、ビラ散布に反発し南北共同連絡事務所の爆破に踏み切った。今回は具体的な措置には触れていないが、発言が単なる「脅し」に止まらない可能性をにじませた。

開城にあった南北共同連絡事務所を爆破(2020年6月)
開城にあった南北共同連絡事務所を爆破(2020年6月)

新型コロナウイルスの流入の原因を韓国に押し付けることで住民の不満の矛先をそらし、韓国への敵対心を煽ることで、内部結束を図るのが狙いと見られる。

新型コロナ克服の節目で与正氏の肉声が公開されたことは、与正氏の政治的影響力が序列とは別に強まっていることの表れといって良いだろう。

今回、宣伝扇動部長が出席していたにもかかわらず、副部長の与正氏が演説したこともそれを裏付けている。

新型コロナの流入という「非常事態」を乗り切るため、「白頭の血統」の一員でもある与正氏が前面に出て、金正恩総書記をバックアップした形だ。

コロナ勝利宣言を受けて、北朝鮮が7回目の核実験や韓国への挑発行為など何らかの武力挑発を再開する懸念が高まっており、警戒が必要だ。

【執筆:フジテレビ客員解説委員 鴨下ひろみ】