それは、「妾と別れること」。これだけは譲れなかった。

意外にも、福之進はすぐに了承して婚姻は成立した。当時の男性の立場からすれば、かなり抑制して穏やかに対応していたと思う。ただ、彼にはそんな口約束を守る気などさらさらないのだが。

明治政府は天皇を頂点とする家族的な秩序構築をめざし、その一環として、戸主である夫の権限を強化して妻や子を支配できるように法制定を進めていた。江戸時代よりもむしろ、維新後のほうが男尊女卑の風潮が強くなっている。「妻は夫に従順であること」が求められる。

妻の側が結婚について条件をつけてくる、夫に自己主張することに、気を悪くする男は多いだろう。しかし、ここでは親子ほどの年齢差が功を奏したようだった。福之進には和の言動が「世間知らずな娘の戯言」としか思えない。

そのうち世間というものを知れば、馬鹿なことを言わなくなるはず。妾の存在も黙認するだろう、と…。それが大きな誤算だった。

那珂川右岸の旧宿場町
那珂川右岸の旧宿場町

結婚から約1年が過ぎた明治10年(1877)に和は男子を産んだ。福之進は「六郎」と名付けたが、初めて産んだ子供なのになぜ“六”になるのか? 和が不審に思って夫を問いただすと、夫はすぐに白状した。彼はすでにあちこちの妾に大勢の子を産ませており、和の産んだのは6番目の男子なのだと。また、この時に口を滑らせて、いまだ妾たちと関係がつづいていることも喋ってしまった。

激高した和がとった行動は

和は嘘がつけない正直者。誰もが自分と同じだと考えて、人の言うことをすぐ信じてしまう。騙されやすいが、騙されたと知った時の怒りも凄まじい。