ただ…福之進はすでに40歳を過ぎた中年男だった。当時の和は18歳、親子ほどの年齢差がある。また、彼は複数の妾を囲っているという噂も耳にする。和にはそれが一番嫌だった。
明治3年(1870)に制定された刑法典の新律綱領には「妻と妾は同等の二等親」と明記されている。明治政府は妾の存在を認め、正妻と同等の法的・社会的地位を保障していた。当時は地位や金のある者が妾を持つことは当然のことで、むしろ“男の甲斐性”として褒められる風潮があった。
イスラム教が一夫多妻制を認めたのは、戦争未亡人の救済や保護が目的だったという説があるが、福祉制度が未整備だった当時の日本も、富裕な男性が妾を持つことにはそういった一面があった。とくにこの頃の士族社会では、戊辰戦争で夫を失った戦争未亡人が増えている。戊辰戦争で従軍した福之進の妾のひとりには、会津藩領から連れてきた女性もいたという。
だが、そんな世間の常識は和の価値観と相容れない。弾右衛門も家老職にあった当時から妾を持たなかった。「潔癖」は大関家の家風なのかもしれない。
この頃の女子は早婚で、田舎だと15〜16歳で嫁入りするのが普通だから、和は行き遅れ気味。弾右衛門はそれを心配していた。病を患って気弱にもなっている。頑固で生きるのが下手な娘のことが気にかかる。自分が亡くなっても娘が食うに困らぬように、富裕な男に嫁がせたいと願っていた。
父の心情は痛いほど分かる。だから、和もここは堪えて縁談を了承することにした。当時の結婚は本人同士の意思よりも、親や親族など周辺の都合が優先される。結婚後にはじめて相手の顔を見る、相手の年齢を知る。そんなことも珍しくはない。
和が出した、ある条件
結婚にあたって和はひとつ、条件を出した。
