外務省が24日に公開した、30年前の外交文書。その背景を聞くために、第79代総理大臣・細川護熙氏と面会しに訪れた場所は、東京都内にある細川氏のアトリエだった。
細川氏は1998年に還暦を機に政界を引退して以降、陶芸家、茶人として創作活動を続けていて、京都の龍安寺の「雲龍図」32面をはじめ、多くの襖絵を手がけ、奉納している。

31年前の1994年の話とあって、細川氏は当時の日記を用意し、当時の記憶をたどりながら答えてくれた。当時、細川総理が向き合っていたのは、日本の貿易黒字を問題とした日米経済協議と、史上初めて決裂した日米首脳会談。
その際向き合った相手の印象について苦い思い出なのかと思いきや、意外な答えが返ってきた。
細川元総理大臣:
クリントンさんの時で言えば、私邸の方に招かれた時にね。あのヒラリーさんと家内と4人で朝食をしたんですけど、そういう時は、とても非常に、温かく迎えてくれた。非常に厳しい数値目標とか何とかっていう話があったんですけれども、そういう中でもう、そういうことは、全然関係ないっていうような感じで、いろんな話を親しくさせてもらって、とてもよかったと思います。
クリントン氏は首脳会談決裂の翌日に、細川夫妻を私邸に招き、もてなしていた。細川氏はまた、会談に先立ち、クリントン氏が細川氏の著書を読んでいたことにも感銘を受けたという。
細川元総理大臣:
なんか、机の上に広げてありましたね。赤線が引っ張ってあって、ああ、ちゃんと読んでくれてるんだって、つまんない本なんだけど、読んでくれてるなと思いまして、関心を持ってくれてるのは、ありがたいことだと思いました。
出発前に「ディザスター(大災害)」
そんなクリントン大統領との個人的な親交とは裏腹に、首脳会談では厳しいやりとりとなった。
細川元総理大臣:
一番の問題は分野別協議というやつで、自動車と自動車の部品、保険、政府調達と、その3つだったんですけども、これについては、まったくもう日本を出る時からモンデールさん(駐日米大使)なんかから、これはもう非常にディザスター(災害)だと。とてもうまくいく可能性がないと。だからその状況になることを覚悟して、アメリカとしては対応しなきゃならんだろうと。日本側としてもそのつもりでいてもらいたいみたいな、そんな連絡が入った。これ出発前ですよ。そんな話が来たりしていました。
首脳会談ともなれば、双方の事務方が合意内容の道筋をある程度お膳立てするもので、見込みが無ければ行わないこともある。
通常は「失敗」や「決裂」はあり得ない。しかしこのときの首脳会談は、出発前から「大荒れ」が予想されていたというのだ。

細川元総理大臣:
そう。それはもう決まってもいましたしね。やめるってわけにもいかない話だから。その覚悟でできるだけ最善を尽くそうという思いでした。
今回公開された30年前の外交文書では、首脳会談に先立って行われた羽田孜外務大臣とカンター米通商代表の3回に渡る会談、夜を徹して行われた激しいやりとりが記されていた。
細川元総理大臣:
あの手、この手、いろんなボールを投げてやったんです。外務大臣も何日か前に先入りしてカンターさんとやってきたけど、とてもそれも難しいという情報も入ってきました。確かに、羽田さんは、首脳会談の当日の朝4時頃まで確かやっていたんですよね。それがやっぱり、いくらボールを投げてもダメだとという話が来てましたから。
政府間の数値目標を受け入れなかった理由っていうことなんですけどね。政府間で民間貿易の数量を決めるのは管理貿易につながるんですよね。自由主義経済の原則に反するし、アジアでもヨーロッパの国も絶対にきちっとぴしっと断ってほしいと。自分たちに影響するという話が来てもいました。しかし、アメリカの方は秋には中間選挙があるもんだから、向こうも必死だったわけ。議会からのプレッシャーも相当あったと思います。
結局、物別れに終わった首脳会談。
しかし、細川氏はこの会談でアメリカに「NO」を言えたことが両国の関係にとって大事だったと振り返る。
細川元総理大臣:
わたしは日米関係っていうのは、本音で何でも言い合える関係っていうのも作っておくことが非常にこれから将来のために大事だと思っていましたし、首脳会談の後でも成熟した大人の関係と私は言っちゃったんですけど、本当にそれは正直な、前から日米関係について思っていたことでその通りに進めていこうと。
日米の通商摩擦というのは外国製の半導体のシェア20%という、その数字の解釈で対立した91年の日米半導体協定の時からなんですよ。それで、アメリカの要求を受けて、日本が最終的に譲歩したんですが、玉虫色の合意を積み重ねることで。むしろなんていうのか相互不信が増幅していったわけ。私は今後の日米関係のために、このあたりでそうしたおかしな形というもの、不自然な形っていうもの、悪循環と言ってもいいのかもしれないけど、それはやっぱり断ち切りたいという思いが強くあったもんですから。
この「成熟した大人の関係」というのは、外務省が用意した原稿ではなく、細川氏自身の思いから出てきた言葉だという。
