西南戦争で証明された不落の城

清正は生前、「熊本城は敵の攻撃にあっても、百日は持ちこたえられる」と言い残していました。

そして、時代は明治時代にまで下ります。明治10年(1877)、熊本城は日本最後の内戦である西南戦争の舞台でもありました。この戦いにおいて、熊本城は清正の予言どおり、その守りの固さを披露することとなります。

熊本城(画像:イメージ)
熊本城(画像:イメージ)

西郷軍の隊長の一人、桐野利秋(きりの・としあき)は「青竹で城を落としてみせる」と豪語していました。しかし、西郷軍は熊本城に籠城(ろうじょう)している新政府軍の熊本鎮台司令長官・谷干城(たに・たてき)と3000足らずの兵に3日間攻撃するものの、耐え凌がれてしまいます。

実は、熊本城の弱点は西側のなだらかな斜面でした。しかし清正はここに二重の空堀(からぼり)を巡らせ、その間に出丸という小城を築いていたのです。

それから籠城50日余り、熊本城は新政府軍の援軍到着まで耐え凌ぐことに成功します。明治に入り、清正の築城した熊本城の防御能力の高さが証明されたのです。城郭建築の能力と武将としての能力を合わせ持っていた人物こそ加藤清正だったのです。

加藤清正(1562~1611)
安土桃山・江戸時代前期の武将。尾張国(現・愛知県)に生まれたと伝わる。豊臣秀吉と同郷。幼名は夜叉丸(やしゃまる)、元服後は虎之助清正と称す。幼少より秀吉に仕え、1580年に播磨国(現・兵庫県)で120石をあてがわれる。賤ヶ岳の戦いでの功績は「七本槍の一人」として有名。朝鮮出兵(文禄の役)では二番手として出兵するも、日本の敗色が濃厚となり、帰国した。慶長の役で一万人を率いて再び朝鮮に渡海するも、日本にいる豊臣秀吉が死去し、帰国。のちの関ヶ原の戦いでは徳川軍の中心として活躍。戦後は一部を除く肥後国の領主となり熊本城を建築。50歳で死去。

『銅像が教えてくれる日本史』(扶桑社新書)

丸岡慎弥
元大阪市公立小学校15年勤務。現在、立命館小学校勤務。関西道徳教育研究会代表。日本道徳教育学会会員、日本道徳教育方法学会会員。銅像教育研究家。教師の挑戦を応援し、挑戦する教師を応援し合うコミュニティ「まるしん先生の道徳教育研究所」を運営

丸岡慎弥
丸岡慎弥

1983年、神奈川県生まれ。三重県育ち。元大阪市公立小学校15年勤務。現在、立命館小学校勤務。関西道徳教育研究会代表。日本道徳教育学会会員、日本道徳教育方法学会会員。銅像教育研究家。教師の挑戦を応援し、挑戦する教師を応援し合うコミュニティ「まるしん先生の道徳教育研究所」を運営。自身の道徳授業実践も公開中。著書に『日本の心は銅像にあった』(育鵬社)、『高学年児童がなぜか言うことをきいてしまう教師の言葉かけ』(学陽書房)など多数。