その日記は、8月5日で止まっていた。
戦争が、そして原爆が、13歳の少女の暮らしと命を唐突に奪っていった。
日記の持ち主は、森脇瑤子さん。広島に原爆が投下された1945年8月6日、彼女は帰らぬ人となった。
80年の時を経て――その日記が原爆資料館に寄贈された。
「妹の分身」だった日記
広島市の原爆資料館で、語り部として講話を行う男性がいる。
瑤子さんの甥であり、「家族伝承者」として活動する細川洋さん(66)。自身の被爆体験を伝え続けた父・浩史さんの意思を継ぎ、今も多くの来館者に語りかけている。

1945年8月6日、浩史さんは17歳の時、爆心地から約1.3キロの旧広島逓信局で被爆。その原爆で、4歳下の妹・瑤子さんを亡くした。
浩史さんにとって、最愛の妹が書き残した日記は「分身」のような存在だった。

【広島第一県女1年生だった瑤子さんの日記】
「今日は家庭修練日である。昨日、叔父が来たので家が大変にぎやかであった。いつもこんなだったら、いいなあと思ふ。明日から家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思ふ」
家庭修練日に、家で食事の支度を手伝ったのだろう。瑤子さんの“日常”に起こったささやかな出来事。明日への意欲…。学校や家庭の様子が13歳の言葉で丁寧に綴られている。
しかし、8月5日の夜を最後に、日記はぷつりと途絶えてしまった。
「棺に入れて燃やしてほしい」
「僕が生きている限りは大切にしよう」と、妹の日記を守り続けた浩史さんは2023年に95歳で死去。その思いは息子・洋さんに託された。

浩史さんは生前、こんな願いを口にしていたという。
「自分が死んだら、この日記も一緒に棺桶に入れて燃やしてくれ」
だが、洋さんが「日記帳の原本を資料館に寄贈しようと思うんだが」と提案すると、こうも語っていた。
「それもいいな。たくさんの人に見てもらえる。きっと瑤子も喜ぶだろう」

その願いを受け継ぎ、洋さんは今回、日記だけでなく瑤子さんが使っていた学習帳や万年筆など約40点にのぼる遺品を寄贈することを決めた。
「当たり前の日常生活が突然終わってしまうのが戦争の現実であり、原爆被害だということを感じてほしい」
平和のバトンを個人から世界へ
6月9日、日記とともに瑤子さんの遺品が寄贈された。
原爆資料館の石田芳文館長は「これは将来に向けた人類共通の財産になる」と話す。

洋さんも「個人的なメモリーボックスから、日本へ、世界へ、そして未来へバトンを渡す機会になると思っています」とメッセージを送った。

明日も明後日も、日記の続きを書くつもりだった瑤子さん。13歳の記憶は予期せぬ形で途絶えたまま、兄からその息子へ、そして80年の時を超えて平和を願うすべての人へと届けられていく。
(テレビ新広島)