安土は水陸交通の要衝であり、その南には当時の主要街道である東山道(中山道)が通っていた。
信長は単に京都に近いという理由で安土を選んだのではなく、安土の経済的価値を重視したのである。なお、信長が安土城を築いた当時、安土山は伊庭内湖(いばないこ)、弁天内湖(べんてんないこ)、西ノ湖(にしのこ)という3つの琵琶湖の内湖によって三方を囲まれていた。
安土城は湖を利用して設計された水上の要塞だったのである。

天正7年(1579)、ついに安土城の天守が完成し、信長は安土城に移り住んだ。
その一方で、天正6年(1578)には甥の津田信澄(つだのぶずみ)に命じて安土の対岸、琵琶湖西岸に大溝城(おおみぞじょう)を築かせた。
琵琶湖を中心に城を築いた信長の狙い
琵琶湖の東西南北に安土城・大溝城・坂本城・長浜城を築城したことによって、信長は琵琶湖の四方ににらみをきかせることが可能になった。城郭研究者の中井均氏は安土城を中心としたこれらの城郭群を「琵琶湖城郭ネットワーク」と名付けている。
信長のねらいは、京都への物流の大動脈である琵琶湖水運を押さえることにあった。4城のネットワークによって、信長は近江経済を支えていた琵琶湖水運の全てを掌握したのだ。
さて信長は安土城築城と並行して、安土山の西麓に城下町を築いた。安土城下町は、近世城下町の出発点として歴史学界で高く評価されてきた。ただし、全くの更地から造られた町ではないことに注意する必要がある。
安土城下町が建設される以前から、同地には複数の集落が存在していた。これらの集落は水路を巡らし、堀で囲まれていたようだが、信長はこれらの集落の堀を埋め立て、新たに道や街区を設けて区画整理を行った。
複数の中世的集落を新市街地に取り込み、全体を一つの城下町としてリニューアルしたのである。また安土には常楽寺港(じょうらくじみなと)や豊浦港(とようらみなと)といった港も存在したが、信長はこれらの港も城下町に組み込んだ。既存の経済拠点を活用しつつ壮大な都市計画を構想・実行したところに信長の偉大さがある。

呉座勇一
国際日本文化研究センター准教授。著書に『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新聞出版)、『頼朝と義時』(講談社現代新書)、『戦国武将、虚像と実像』(角川新書)、『動乱の日本戦国史』(朝日新書)、『日本史 敗者の条件』(PHP新書)、など多数。