天正元年(1573)8月、織田信長は越前の朝倉義景を滅ぼし、その本拠地である一乗谷を焼き払った。

その後、同国内で一向一揆が蜂起したが、天正3年(1575)8月にはようやく鎮圧に成功し、柴田勝家を同国北ノ庄(きたのしょう)に置いて、越前支配を本格化させた。

信長は壊滅状態の一乗谷の復興を選択せず、水陸交通の要衝として発展していた北ノ庄を越前支配の要としたのである。

信長は迅速な戦後復興のため、既存の特権商人を利用した。

朝倉氏滅亡直後、北ノ庄で同地の名産である絹布(けんぶ)の独占的販売権を持つ軽物座(かるものざ)の既得権を認め、代わりに上納金を要求したのである。

柴田勝家の像(画像:イメージ)
柴田勝家の像(画像:イメージ)

天正3年に柴田勝家が越前支配に乗り出した後も、軽物座の保護は続いた。

しかし翌天正4年になると、勝家は城下町の北ノ庄で「楽座」を実施する。これは、信長に倣って「楽座」を導入し、多くの商人を呼び込むことで、城下町を発展させようとしたものと考えられる。

けれども「楽座」によって、座のメンバー以外も自由に商売できるようになると、座商人たちの特権はなくなってしまう。

軽物座と薬種を扱う唐人座(とうじんざ)は、あわてて勝家に特権保護の陳情を出した。これを受けて、勝家は軽物座と唐人座に関しては、「楽座」の対象外とし、引き続き上納金を受領することにしたのである。

この点、勝家の楽座政策は不徹底であり、目先の金に目がくらんだように映る。

羽柴秀吉の正確な理解

一方、羽柴秀吉はどうだったのだろうか。