秀吉は天正7年(1579)に播磨国美囊郡淡河(はりまこくみのうぐんおうご)(現在の兵庫県神戸市北区淡河)に対して楽市令を出し、座の特権を否定している。
この時期、秀吉は播磨を攻略中で、各地の市場に対し、税金免除や治安維持を約束し、戦後復興を精力的に進めていた。淡河への楽市令もその一環と考えられる。

もともと淡河は、毛利方の三木城(現在の兵庫県三木市上の丸町)への兵糧輸送のための中継地点であった。秀吉は淡河を占領し、自軍の物資調達ルートを確立したうえで、三木城を兵糧攻めにした。
このように秀吉は、戦争において地域経済を掌握することの重要性を、正確に認識していた武将であった。軍事と経済の両方で利益を得る政策を行ってきた信長の下にいたからこそ、その考えを確立できたのであろう。
周知のように秀吉は信長の死後、勝家を破り、天下人への道を歩む。当初は京都などの座を認めていた秀吉だが、天正13年(1585)に関白になると、全国的な楽市令を発令している。秀吉は信長の経済政策を継承・発展させたのである。
信長流の集大成・安土都市開発
これまで述べてきたように、楽市令は信長が始める前から、既に各地の戦国大名が経済政策として採用していた。
しかし、他の大名と比べ信長が大きな金銭的効果を得ることができたのは、都市開発と並行して行ったことにある。