信長の楽市楽座は、人々に商売の自由を無条件・無制限に与える画期的な規制改革というより、商人を誘致し特定の市場を繁栄させるための都市政策の一環であった。
現在に例えるなら“経済特区”である。したがって安土楽市令を正確に評価するには、信長による安土築城・安土城下町建設という都市計画を理解する必要があろう。
信長の居城である岐阜城と、日本の政治・経済の中心である京都との間は、当時陸路で1泊2日かかった。この距離・時間のネックを解消するには、岐阜と京都の間にある近江を軍事制圧し、近江に政治拠点を確保する必要があった。
信長は堅田(かただ)など琵琶湖沿岸の海賊勢力を水軍として組織して近江での戦いに活用した。続いて六角氏や浅井氏といった近江国内の反信長勢力を駆逐しつつ、湖岸の要地に城を築いていった。
安土の経済的価値の高さ
元亀2年(1571)、信長は明智光秀に命じ、琵琶湖南岸に坂本城を築かせた。
坂本は比叡山の麓の門前町で、また京都への入り口ということもあり重要地点であった。ついで天正3年(1575)、羽柴秀吉に命じて琵琶湖北岸に長浜城を築かせた。
そして信長は天正4年(1576)から琵琶湖東岸の安土において築城を開始する。