若松城の各建造物の屋根に葺かれていたのは、蒲生氏郷が天守を建てた当初は、黒っぽいいぶし瓦だったと考えられている。だが、寒冷地の会津では、上薬が塗られていないいぶし瓦は、雪が解けるときに水が染み込み、その水分が凍って瓦が割れる、ということが問題になったようだ。

このため、寛永20年(1643)に改易された加藤明成に代わって入封した三代将軍家光の弟、保科正之が対策を講じた。上薬を塗って水分を吸収しにくくした赤瓦を使用することにし、承応2年(1653)から葺き替え作業を開始したのだ。

取り壊し直前の天守も、葺かれていたのはすべて赤瓦だったことが、払い下げられた瓦などから判明していた。そこで、天守や付属する走長屋、鉄門などの瓦がすべて赤瓦に葺き替えられ、幕末の姿が再現されたのである。

小田原城の天守は…

昭和35年(1960)に建てられた小田原城天守は、平成22年(2010)から耐震改修と木造再建の双方について、どちらを行うべきか検討され、「耐震改修は安全性を確保するために速やかに行う必要がある」という結論が出された。

これを受け、平成27年(2015)7月から耐震改修工事が進められ、その際、最上階の五階に摩利支天像を安置する空間が、木造で再現された。

小田原城(画像:イメージ)
小田原城(画像:イメージ)

小田原市は天守の耐震改修について検討するにあたって、小田原城天守閣耐震改修検討委員会を設置。一環として、平成25~26年(2013~14)に、小田原城天守模型等の調査研究を重ねてきた。

その成果として、昭和35年の天守再建にあたっては、ほとんど無視された東京国立博物館蔵の模型が、かつての天守の姿をもっともよく伝えているという結論にいたった。