この調査では、最上階には摩利支天など天守七尊を安置する空間があることがわかったが、それと合致するのが東博の模型だけだったのである。

そして、詳細な間取りなども判明したため、その空間が復興天守の最上階に再現されることになった。

鉄筋コンクリート建築の内部ではあるが、旧小田原藩有林から産出された小田原産の木材が使われ、小田原城銅門などの復元工事を手がけた宮大工を中心に、小田原の大工や左官が参加して、木造の空間が創出された。

ただし、残念ながら、再建時に小田原市当局の要望を受け入れて設置された、史実にはなかった最上階の廻縁は残されたままである。

焼失前の姿に近づいた大垣城

空襲で焼失し、昭和34年(1959)に再建された大垣城天守は、眺望を優先して最上階の窓が大きくとられ、立派に見せるためなのだろうか、破風などが金色の飾り金具で派手に装飾されていた。

いわば、映えるとは思えない「見栄え」を優先するあまり、昭和20年(1945)に焼失する前の姿が改変されてしまっていた。

大垣城(画像:イメージ)
大垣城(画像:イメージ)

その姿が、平成21年(2009)から22年(2010)にかけて行われた屋根瓦の葺き替えと外壁の改修工事に際して変更された。

最上階である四重目の窓が、漆喰で塗籠られた土戸がつく焼失前の姿にあらためられ、破風を飾っていた金色の金具も取り払われた。

また、細かいようだが、瓦も江戸時代と同じ大きなものに葺き替えられた。

鬼瓦は、再建時にすべて桃をかたどったものにされていたが、戦前と同様、桃型のものが21と鬼面が14に戻された。こうして高さ19メートルの天守は、少なくとも外観に関しては焼失前に近い姿を得ることになった。