ブームを呼び起こしている日本の城。
かつては数万あったといわれる日本の城の多くは失われた。
城の整備といえば、以前は「点」として再建して終わることが多かったという。
しかし近年は「点」を超えて、それらが連なる「線」に意識が及び、城郭としての「面」を復元させようという動きも各地で進んでいる。その一つが、金沢城。「面」を意識することで、空間を楽しめる城郭散策ができるという。
歴史評論家の香原斗志さんの著書『お城の値打ち』(新潮新書)から、一部抜粋・再編集して紹介する。
金沢城の復元手法
近年は櫓や門などを「点」として整備するだけでなく、城郭の跡地を可能なかぎり「面」として整備する試みも増えている。
そうした例のひとつが金沢城である。

加賀前田百万石の居城であった金沢城は、明治6年(1873)の「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」によって存城とされた。
このため陸軍歩兵第七連隊が入ったが、明治14年(1881)に兵士の失火が原因で、現存する石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫を残し、二の丸御殿のほか、数々の門や長屋(多門櫓)などが焼失してしまった。
その後は城内に陸軍第九師団司令部が置かれ、戦後は金沢大学のキャンパスとなっていた。平成7年(1995)に金沢大学が郊外に移転すると、石川県が国から跡地を取得。都市計画公園事業に着手し、その一環として復元整備事業がはじまった。
まず、同13年(2001)に開催された「全国都市緑化いしかわフェア」に合わせて、二の丸の菱櫓(平面が菱型の三重櫓)、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門一の門(高麗門)がよみがえった。
この一連の建造物はひと続きで、土台となる石垣の解体調査を行ったうえで、文化5年(1808)の再建史料にもとづき、延べ5万4000人もの職人が参加し、伝統工法で復元された。