福島県双葉町は、東日本大震災、福島第一原発事故の発生後から全域で避難指示が続いてきた。

2020年3月4日に一部地域の避難指示が解除されたが、そのエリアには未だ住民が住むことはできない。居住開始を目指すのは、2022年の春だ。

少しずつ「帰還」への道が見えてきた一方で、避難生活を続けてきた町民たちにとって、9年という月日が重くのしかかる。

避難指示解除の裏で揺れる2つの家族がいた。前編では、町に帰りたい父と避難先が新たなふるさととなりつつある娘の姿に迫っていく。

(全2回、#2はこちら

当初は数日で帰れると思っていた…

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双葉町で生まれ育った中谷祥久さん、39歳(取材当時)は、2人の娘を持つ父親だ。

震災の時に長女は6歳、次女は3歳だった。

「当初は数日で帰れると思っていた。でもすごく長い月日が経った」とこの9年を振り返る。

2011年、原発事故が起きたことで双葉町のすべての町民が避難をしなければならなくなり、避難先となった埼玉県加須市には、役場と一緒に約1400人の町民が身を寄せた。

当時30歳だった中谷さんも、家族と避難した。当時6歳、小学1年生だった長女・結愛さんは、双葉町を離れて約1ヵ月後には避難先の小学校に入学。その後、中谷さんは地元の復興にあたるため、家族を埼玉県に残したまま一人で福島県内に戻った。

現在はいわき市に構えた新しい自宅で家族と暮らしている。

中谷さんは、毎月双葉町へ足を運んでいるという。

「これだけ年数が経つと通うのも慣れます。自分のふるさとなので何もなくても帰りたい」

これまで100回以上の里帰りを繰り返す中で、双葉町の消防屯所には必ず立ち寄る。

壁に掲げられた写真には、消防団を務めていた中谷さんやその仲間たちの姿があった。

「この写真だけは置いておこうって。自分たちがいた証ということで、いつ解体されるか分からないけれど、解体されるまではずっと残しておこうと思う」と写真を見つめる。

娘にとって“避難先”が“ふるさと”に

中谷さんには、この双葉町を大切に思う理由がある。

2015年の双葉町
2015年の双葉町

2015年に里帰りした故郷は、まだ震災の爪痕が残されていた。

復興が進んでいない町を見つめながら、「道路や建物が直っていれば復興に向けて動いているのかなって思うけど、まだ何もない。はがゆい」とこぼす中谷さん。

理容店を営んでいた中谷さんの実家
理容店を営んでいた中谷さんの実家

実家は理容店を営んでいた。場所は町の中心部だが、放射線量が高く、立ち入りが制限される帰還困難区域に指定されている。

震災から4年経っても実家の中はそのままだった
震災から4年経っても実家の中はそのままだった

「戻ってくるならこの家をなんとかしたい。帰れる見通しが立ったときに帰る場所がないと困る。30年住んでいたから思い入れはあるよね」

こう話していた4年後の2019年。

避難が続く中で荒れてしまった我が家は、解体するしかなかった。

2019年、実家は解体され更地に
2019年、実家は解体され更地に

「娘2人は小さかったけれど、ここで育ったので。親としては1回でもいいから来させたかった」

更地となった自宅を見つめながらつぶやくが、帰還困難区域は15歳にならないと立ち入ることが出来ない。

こうしたことも影響し、長女・結愛さんの気持ちも変化していく。

中谷さんは「震災当初は『自分の家に帰りたい』と言っていましたが、だんだん言わなくなってきて。いわきで暮らしていてホッとして、いわきの方の印象が強くなってきて双葉の方を忘れていく。自分としては複雑」と明かす。

実家の隣にはかつては家があったが、「復興シンボル軸」と名付けられた新しい道路の整備が進められていた。

家族で再びこの町に住めるのか。

思い描いていた未来とは違ってきたが、中谷さんはその現実と向き合おうとした。

町に戻らないと決めた人たちも

2019年の双葉町は、復旧工事と解体工事が同時に進み、新たな姿に変わろうとしていた。

震災直後の双葉町の風景
震災直後の双葉町の風景
同じ場所で撮った2019年の双葉町の風景
同じ場所で撮った2019年の双葉町の風景

しかし、避難生活が長引くにつれて、町には「戻らない」と決める町民も増えていった。

双葉町住民意向調査(復興庁・福島県・双葉町)では、2015年には「戻りたい」が13.3%、「戻らない」が55%だったが、2017年には「戻りたい」が11.7%、「戻らない」が61.1%、2019年には「戻りたい」が10.5%、「戻らない」が63.8%と年々増加している。

震災当時7000人いた町民は、9年が経過しても全国で避難生活を続けている。その町民の絆をつなぎとめようと、中谷さんが中心となり避難先のいわき市で「ダルマ市」を開催している。

原発ができるずっと前、江戸時代から続いてきたとされる町の伝統行事は、子どもから大人までみんなが楽しみにしている祭りだった。

「商売繁盛、五穀豊穣、家内安全といった願いを込めてダルマを売ります。裸で神輿を担いでいるのは誰だろう?と思っていたんですけど、『俺らがやるんだ!』って思って。消防団がやっているとは知らなかった。こんな恥ずかしいこと何でやっているんだろうと思っていたら、19歳のときには担いでいた」

避難生活の中で失われつつあった双葉町らしさ。それを途切れないようにつないできたのが、中谷さんと消防団の仲間たちだ。

双葉町で行われたダルマ市
双葉町で行われたダルマ市

中谷さんは「双葉が好きだからっていうのはやっぱりある。若い人、後世につなげていければという思いもあり、頑張らないと」と奮い立たせる。

2019年12月、この年の「ダルマ市」の準備が進められている中、双葉町にとって大きな動きがあった。

双葉町の避難指示解除準備区域と、特定復興再生拠点区域の一部区域について、2020年3月4日午前0時に避難指示を解除することが決まったのだ。

双葉町・伊澤史朗町長は「“復興”という姿が“元の町に復する”とイメージしている方もいるかもしれないですが、私たちはちょっと違った状況。『戻りたい』『戻る』という人たちのための町を新たに建設するという思い」と話した。

たとえ家族と離れたとしても…戻りたい

2020年1月、いわき市に作られた復興公営住宅で令和初の双葉町「ダルマ市」が開催された。

町へ戻らないと決めた町民もこの日だけは全国各地から集まる。

神輿をかつぎ、会場を盛り上げた子どもたちは双葉町でのダルマ市を知らない。

一方、消防団によるダルマ神輿は避難先でも健在だった。場所が変わっても男たちの気合いは変わらない。裸になって担ぎ始めて20年経つ中谷さんも、今はもう恥ずかしくない。

会場には中学3年生になった長女・結愛さんも来ていた。双葉町での記憶は薄れつつあるが、それでも父親がつないできたダルマ市は、毎年欠かさず足を運んできた。

中谷さんは「やり続けるしかない。町民の絆をつなげるには。ダルマ市はやっぱり途切れてはダメ」と決意を新たにする。

ダルマ市に関わった町民たちと双葉町への思いを語り合う中谷さん。

「新しい双葉は必要ない」と変わっていくかつての故郷に思いをはせ、「帰れないのはわかっているけれど、帰りたい」と言葉をつまらせながら涙を流していた。

「帰る」「帰らない」その決断にはそれぞれの事情があるが、故郷への思いはみんな同じだ。

3月11日、中谷さんは双葉町で黙とうを捧げた。実家は解体されてしまったが、梅の木はそのままだった。

避難指示が解除された故郷で、中谷さんが考えた“復興の形”がある。

「9年経って初めて故郷で3月11日の2時46分を迎えたんですけど、やっぱり故郷で過ごせたのはいいものだと思います。本当のことを言えば、震災前の元通りにしてほしい。でもそれはできないから…。

町が新しく生まれ変わるには、やっぱり新しいものも作らないといけないと思いますし、残しておかなければならないものあると思う。作るものは作って、残すものは残すと凄くいい町になるんじゃないかな」

双葉町を離れ10年が経ち、長女・結愛さんは高校へと進学した。

「娘にとってのふるさとはもしかしたら避難先のいわき市かもしれない」と考えるようになった中谷さん。たとえ避難先のいわき市と双葉町に分かれて暮らすことになったとしても、町に帰ることができるようになったら、町に帰る町民の一人として頑張っていこうと考えているという。

後編では、「双葉町に帰りたい」と願い、双葉町の役に立つために自分にできることを考える女性の姿を追っていく。

【#2】「双葉町のために役立ちたい」故郷へ帰ることを願う18歳の選択

(第29回ドキュメンタリー大賞『福島県双葉町 ~10年目のふたば、ふたたび~』)

福島テレビ
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