2019年8月28日に発生した佐賀豪雨。

佐賀県の中でも特に甚大な被害を受けたのは、大町町と武雄市だ。

この日からしばらくの間は、佐賀のニュースが豪雨一色に。しかし3ヵ月、半年と経過するにつれ、報道も話題にのぼることも少なくなった。

また来るかもしれない…そんな恐怖と向き合いながらも、故郷で生きることを選んだ人たちがいる。“豪雨を風化させない”という思いから取材を受けた3組の人々が、ふるさとで“生きる”姿を追っていく。

前編では、大町町で家が全壊しても同じ場所に住むことを選んだ親子、そして生涯現役を選んだ畳職人の想いを追った。

豪雨で油が流出…自宅が油まみれに

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佐賀県・大町町に50年以上暮らす野口美佐子さんは現在、息子が代表を務める会社でカフェを手伝っている。

街は豪雨被害から戻ってきたように見えるが、あの日を境に暮らしは大きく変わった。豪雨で受けた心の傷は今も癒えていない。

美佐子さんが長年住んでいた自宅は、豪雨の影響で油まみれになった。自宅から約250メートルの距離にある鉄工所から油が流出し、その影響を受けたのだ。

今も床が骨組みだけになった自宅に帰り、換気をすることが日課になっている。豪雨の被害を受けた自宅は当時のままだった。

「ここをきれいにしても修理しているうちに死ぬかもしれないと主人と話したりして。だけん熱が入らない」

そう、こぼした。

当時の状況を長男・必勝さんは「田んぼと川と道がすべて川のようになっていた」と振り返る。

鉄工所から流れ出た油は強烈な臭いを放ち、家の中まで流れ込み、不気味なまだらのようになっていた。

「目は沁みるし、臭いもキツイし、めまいがして。床上までくることを想像していなかったのでショックはショックでした」(必勝さん)

現在は仕事の都合で東京で暮らしているが、必勝さんは豪雨の前日にたまたま佐賀に帰っていた。

1階で休んでいたという美佐子さんは、「息子が『水が引かないから、今脱出しないと出られない』って。裏口から(私を)おんぶして油のないところまで行ってくれて」と、必勝さんと避難した。

黒く漂う油を目の前にして、必勝さんは「油の害が人体にどういう被害があるかもわからなかった。そこも怖かったですよね」と顔をこわばらせた。

豪雨前の野口さんの自宅の庭
豪雨前の野口さんの自宅の庭
豪雨の被害で油まみれになった野口さんの自宅の庭
豪雨の被害で油まみれになった野口さんの自宅の庭

結果的に逃げた後に水位はさらに上昇し、美佐子さんの頭の上まで達していた場所もあった。手入れを欠かさなかった庭も、濁った水と油が覆いつくしてしまった。

30年前の豪雨でも油が…

鉄工場から流れ出た油の量は、約5万4000リットル。町内の206棟が被害を受けた。

実はこの鉄工所は30年前の1990年の豪雨でも油が大量に流出し、今回と同様に周辺に大きな被害を出した。

2019年当時の区長は「30年前と水路や排水量も全部一緒でしょうね。今度の方がひょっとしたらひどいかわかりませんけど…」と話している。

当時の鉄工所の担当者は「考えていた以上の水が入ってきてしまい、対応できなかった。想定外という言葉通りになってしまいます」と述べている。

佐賀県内でも特に大きな被害をもたらした大町町周辺。なぜ、ここまで浸水が拡大してしまったのか。

佐賀大学工学部・大串浩一郎教授は「この地域は六角川が蛇行してまた戻るということで、川に囲まれたような低い土地」と解説する。

佐賀平野をうねるように流れる六角川の水位は、最大6メートルにも及ぶ有明海の干満差の影響を大きく受ける。そのため満潮の時間と大雨が重なり、川の水位が堤防の限界まで高くなると、ポンプによる排水ができなくなり、浸水を起こしてしまうという。

しかし、今回の被害の理由はそれだけではない。有明海の満潮を過ぎると徐々に浸水の水位も下がるはずだが、大串教授は「油が一緒に流れてきたので、通常であれば排水機場から排水できるところを、油があるため川や海に流せなかったのでやめたんですね。排水ができなくなり、この地域は水の中に孤立した」と話した。

排水をすれば油が海に広まってしまうため、あえて排水しないことを選択したという。

建て直したいけど金銭的に厳しい現実

佐賀豪雨のあと、美佐子さんの住宅は町から全壊と認定された。

しかし、油を流出させた鉄工所からの補償金は1世帯あたり250万円。

必勝さんは「250万円で(家を)取り壊して、家が建てられる業者さんがいたら、むしろその業者さんを紹介して欲しい」と肩を落とす。

家を再建したくても金銭的に苦しいのが現状だった。

豪雨は美佐子さんや必勝さんの思い出も奪い、必勝さんの高校時代の写真には黒い線が付着。美佐子さんが50年間集めていた、趣味の反物も油まみれになり、すべてを処分した。

集めた反物で孫の七五三のために晴れ着を作る予定だったが、骨組みだけになった部屋を見て「生きがいが何もなくなった。どう生きがいを取り戻せば良いかね、教えて」と訴えた。

美佐子さんの今の仮住まいは高台に位置し、比較的安全な場所にあり、広さも十分で不便はないという。しかし、親子は家を再建することを考えている。

「(仮住まいは)歴史がないしね。私たちの歴史は何年もないじゃないですか。ホテルに泊まっているのと同じ」

必勝さんも「私はもう両親のことを考えたら、ここである必要もあるのかなと思ったこともありますけど、やっぱり自分の家に住みたいと思うように最近なりましたから。どうにか再建したいと思います。再建をしたとしても、また(豪雨が)来るかもしれない。常にそれと隣り合わせっていうのはありますけどね」と複雑な心境を明かした。

難しいことは分かっていても、やっぱり思い出の詰まった家に戻りたい。美佐子さんの気持ちはこれからも変わらないという。

「よそ(仮住まい)に住んでいても、50年間ここで過ごしてきた。いくら良いところを紹介されても落ち着かない」(美佐子さん)

周りの後押しを受け生涯現役へ

佐賀豪雨により、人生の選択を変えた人もいる。

大町町で暮らす畳職人の村山直さんは、60歳を迎えたことで引退を考えていたが、生涯現役で頑張っていくという決断を下した。

1926年に創業し、町で唯一の畳店の3代目を務める村山さんも“あの日”を振り返る。

「朝4時くらいから降ってきて、だんだん水かさが増えてきよって。外から増えてきたら、下からも家の中に入ってきて、結局は外と同じ水かさになって全部浸かった。怖かった。棚にモノを載せて濡れないようにして2階に行って。降りてきたら棚が水で浮いて倒れて全部…めちゃくちゃ」

店の1階部分は腰のあたりまで浸水。村山さん一家は、水が引くまでの間、2階で自衛隊から物資をもらいながら過ごした。

2日後に水が引いて作業場を見ると「畳屋が終わった」と感じたという。「機械を新しくして材料をそろえるのはちょっとしたお金じゃできんしね」とこぼした村山さん。

機械も畳の材料も何もかもが壊滅状態になり、何もする気が起きず、廃業を考えた。

そんな中でも、村山さんの携帯電話はひっきりなしに鳴り続けた。

「畳を外したけど直せない」

あちこちから畳を求める声が後を絶たなかった。

「自分がやらないとほかに誰もやる人はいない」と、村山さんは代わりの機械をメーカーから用意してもらい、2000万円の借金をして畳職人を続けることを決めた。

豪雨の後の3ヵ月で作った畳は約700枚。通常の2倍以上の数だった。

村山さんは自らを奮い立たせるように畳づくりに没頭する一方で、自らの家は後回しにした。「お客さんのところが全部済んでから、自分のところをやる」と、畳店なのに畳が敷かれず、床は骨組みだけだった。

床は畳が敷かれず、骨組みのまま
床は畳が敷かれず、骨組みのまま

今回の豪雨をきっかけに畳から離れた人も多いという。

しかし、豪雨の被害を受けた住宅へ畳の納品をすると、住人は「畳はやっぱりいいですね」とホッとしたような表情を見せ、畳のぬくもりを感じていた。

そんな村山さんは新型コロナウイルスの感染拡大を受け、新たなチャレンジを始めた。畳の材料を使ったオリジナルマスクづくり。

このご時世だけあって、何百個作っても飛ぶように売れるという。

18歳から畳を作り続けて42年。もともと還暦になったら区切りを付けようと思っていたが、還暦の年に豪雨の被害に遭った。

周りの後押しを受け、町内で唯一の畳職人として生涯現役の決意を固めた。

「大町町にはおやじの代は畳店も数軒あって、職人も何十人もいたけど、今は私一人しかおらんもんで、私がやらないと畳がなくなってしま。畳は日本の心のふるさとと言うくらいやけん。私の代は頑張っていこうと思う」

いつ、また来るか分からない豪雨。大町町は特に浸水リスクの高い地域の一つだという。

大串教授は「2019年のような浸水は主に内水氾濫(街に溜まった水が排水できずに浸水)でした。内水氾濫は当然また起こりえます。それだけでなく、今後の気候変動などによって、外水氾濫(川の堤防決壊、越水で浸水)で河川の堤防が決壊したりすると、もっと大変なことになる可能性もあります。最小限の損失になるよう、みんなで努力しないといけない」と話す。

後編では、大町町の隣にある武雄市で弁当店を営む店主の葛藤に迫っていく。

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『佐賀豪雨 私の選択 ~ふるさとで生きる理由~』)

サガテレビ
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