2019年8月28日に発生した佐賀豪雨。
佐賀県の中でも特に甚大な被害を受けたのは、大町町と武雄市だ。
この日からしばらくの間は、佐賀のニュースが豪雨一色に。しかし3ヵ月、半年と経過するにつれ、報道も話題にのぼることも少なくなった。
また来るかもしれない…そんな恐怖と向き合いながらも、故郷で生きることを選んだ人たちがいる。“豪雨を風化させない”という思いから取材を受けた3組の人々が、ふるさとで“生きる”姿を追っていく。
後編では、武雄市で弁当店を営む店主の葛藤に迫っていく。
よぎったのは30年前の豪雨
この記事の画像(9枚)佐賀・大町町の隣にある武雄市。
約1300年の歴史を持つ武雄温泉があり、佐賀県の観光地としても有名な場所だ。
2019年8月28日に発生した佐賀豪雨で、武雄市も広範囲にわたって水浸しになり、住宅や住民が被害に遭った。
地元の人や企業を中心に、自慢の日替わり弁当を作り配達まで行う弁当店「料亭松山」。地元の支えが再開の道を選択させた。
店主の松山昇さんは先代の父親から店を継いで30年になる。豪雨を乗り越え、妻・和美さんと店を切り盛りしている。
8月28日の早朝、松山さんは店のすぐ近くにある自宅で、激しい雨の音に目を覚ました。
「朝5時ごろに目が覚めて、2階の窓から外を見たらすでに水に浸かってて」
逃げようと外に出ると、車は動かそうにも動けない状態だった。
松山さんの脳裏には嫌な記憶がよぎったという。30年前の1990年にも佐賀県を襲った大規模な豪雨災害だ。松山さんの店は、その時にも被害を受けていた。
武雄市北方町周辺は、川の堤防と山に囲まれ、周辺よりも低く平らな土地が広がっているため、特に浸水しやすい地域の一つだという。
1990年の豪雨でも畳が全部水に浸かってしまったため、今回も店内へ水が浸水してくることも考え、店の奥にある50畳の和室の畳を上げ、台の上に乗せるなどした。
その後は身の危険を感じて自宅の2階に避難。みるみる浸水していく街と店を見つめるしかなかったという。
“浸かったらどうするか”対策を
松山さんの祖父が1950年代に開いた松山商店。当初は魚や果物を売っていたが、2代目の父が弁当の販売を始めた。
松山さんは福岡県で福祉関係の仕事をしていたが、30年前の豪雨を機に佐賀に戻った。
「前回の水害のときにおやじが言ったんです。後継ぎする気がなかったら、もう店をやめようかと思っていると。それで帰って来たんです。やっぱり親を助けてやらんといかんなと思ったんですよね」(松山さん)
今回の豪雨で店にとっては2回目の被害となった。
佐賀大学工学部・大串浩一郎教授はこう指摘する。
「今後も同じようなことが起こる可能性は高いと思います。1990年のときもそうでしたが、今回もだいだい浸かったところは同じです。浸かりやすいところがある程度分かっているので、“浸かったらどうするか”と、あらかじめ対策を立てておくことが大事だと思います」
こうした現状もあり、また同じ場所で店を再開させることが正解なのか、松山さんは悩んだという。
そんな時に思い出したのは、豪雨のあとにすぐに駆けつけてくれた常連客や地元の仲間たちだった。彼らの支えもあり、松山さんは故郷で前に進むことを選んだ。
「友人とかも話したりするんですけど、また(豪雨が)くるかも分からんけど、とりあえずこの場所でできることをやりたい。また(豪雨が)きたらどうしようと思いますね。確かに、災害は忘れた頃にやってくるでしょうね。平成2年の豪雨を聞いていたので、もうちょっと対処できたかなとも思うんですけどね」
災害の怖さと隣り合わせであっても、待っている人に弁当を届けたい。
朝から立ちっぱなしで働く日々が続き、「最近はかなり体力的にもキツくなってきた」と明かす松山さんの今の目標は、高校生の長男に道を譲ることだった。
「息子は店をする気はないことはないと言っています。でも料理も好きなんです」(松山さん)
長年暮らした我が家を佐賀豪雨はすべて飲み込んだ。
今、平穏を取り戻した街には、力強く故郷で生きることを選んだ人たちがいる。
彼らは、また来るかもしれない自然災害と、日々向き合っている。
懸命に前に進んでいる。
(第29回FNSドキュメンタリー大賞『佐賀豪雨 私の選択 ~ふるさとで生きる理由~』)