2020年秋、イスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。ボスポラス海峡に近いこの閑静な並木通りは、周囲を公園やグラウンド、学校に囲まれている。トルコに名を刻まれた、この津村諭吉とは誰なのか?

捕虜の引き渡しを拒否

津村中佐は、第1次世界大戦中にロシアの捕虜となった1000人あまりのトルコ兵を母国に送還した、旧日本軍の輸送船・平明丸の司令官だ。平明丸はトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕され、津村中佐は捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った人物だ。

津村諭吉中佐
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拿捕された当時の日本の新聞には、以下のように記載されている。

大阪毎日新聞(1921年4月22日付): 
シベリアに在った俘虜(捕虜)のトルコ兵を大洋汽船平明丸でトルコへ送還中、ギリシャ政府はアンカラ政府と戦争状態にあるを以て、トルコの俘虜を送還する事は即ち敵軍の勢力を増加する結果となるに依り、トルコ国の俘虜をレスボス島に上陸させるよう交渉して来たけれども、日本当局が之を承認しなかった為めギリシャ軍司令官は直に平明丸を抑留した。

※一部省略。原文の地名はカタカナに変換済

旧日本軍の輸送船 平明丸

拿捕を受けて日本はギリシャの後ろ盾だったイギリスなどと話し合いに入った。しかし、協議は遅々として進まず、最終的にイタリアの仲介で決着をみた。平明丸がイタリアのアシナラ島で、イタリア側に捕虜を引き渡したのは1921年10月18日。冬のエーゲ海は波が荒く、雨も多くて航海には向かない。平明丸が日本に向けて引き返すにはぎりぎりの時期だったと見られる。トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退した。

平明丸の航路

映画化された「平明丸」事件

しかし、約100年前の事件がなぜ今、トルコで注目を浴びたのか? 実は、トルコ人監督による「平明丸 母国トルコへ帰るとき」と名付けられたドキュメンタリー映画が制作されたことをきっかけに、この事件が知られるようになったのだ。作品はトルコだけでなく日本でも上映された。さらにエルドアン大統領が2019年6月、G20大阪サミットに出席した際に次のように発言したことが、津村中佐の知名度を一気に高めることになった。

G20大阪サミットで訪日したエルドアン大統領(2019年6月)

エルドアン大統領:
第1次世界大戦時に、ロシア軍の捕虜となっていたトルコ兵の身柄をギリシャ軍に引き渡すことを拒否した船の司令官、津村中佐に親愛と敬意を表し、心から感謝する。

早くも地元住民に浸透

「津村諭吉中佐通り」ができたイスタンブール・ベイコズ区は、1973年に日本の支援で開校した海洋専門高校があり日本との結びつきが強い。ベイコズ区では、エルドアン大統領の日本での発言を知り、両国の友好の証としてこの通りの改名に着手したという。改名案は2019年9月にベイコズ区議会で可決され、翌年2月にはイスタンブール市議会でも全会一致で可決した。 筆者は「津村諭吉中佐通り」と書かれた看板の前で、地元の人たちに話を聞いた。 

クトゥプさん(女性):
ギリシャ軍がトルコ人兵士らを捕虜にしようとしたけど、この司令官が拒否したのよね。通りに彼の名前が付けられてとても嬉しいわ。彼のような素晴らしい人の名前が後世に受け継がれていくことは素晴らしいことよ。彼が居て本当に良かった。この逸話を知って感動したわ。彼の功績に対し、日本人の皆様に感謝したい。ありがとう。

地元住民のクトゥプさん

イスマイルさん(男性):
捕虜になった日本人中佐の話は地元新聞で見たよ。トルコと日本の話はこれが初めてじゃない。その前にもエルトゥールル号(※注)がある。映画を観て本当に感動したよ。日本の貧しい村の人々がトルコ人を一生懸命もてなしてくれたんだ。トルコ人も日本人も困った人を放っておけない国民性を共有しているから、民族は違っても心は一緒だよ。

※注)親善のため訪日したトルコの軍艦エルトゥールル号が、1890年和歌山県串本町沖で嵐に遭遇し沈没。乗組員ら587人が死亡したが、地元民らにより69人が救出された。この歴史的な友情と絆の物語が、2015年に日本・トルコ合作映画『海難1890』として公開された。

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両国の遺族が対面

日本の先人たちが行った善行のおかげで、トルコ人の日本人に対する信頼は絶大だ。映画「平明丸 母国トルコへ帰るとき」のハイリエ・サワシュチュオール監督と、平明丸に乗っていたトルコ兵の孫のシェナイ・アテシさんに話を聞いた。サワシュチュオール監督はシェナイさんの父・ムスタファ・ドクルさんの視点でドキュメンタリーを制作。シェナイさんは、津村中佐の遺族に会うために訪日も果たしている。

サワシュチュオール監督(右)とトルコ兵の孫のシェナイ・アテシさん(左)

サワシュチュオール監督:
この史実を知った瞬間、衝撃が走りました。7年もの抑留と船旅を経てトルコの大地が見えるところまで来て、再び捕虜となったトルコ兵らの無念と、日本人乗組員に死者が出ても信念を曲げず最後までトルコ兵を引き渡さなかった日本人中佐の話。「このまま埋もれさせてはいけない。何とかして世に知らしめたい」という使命感に駆られました。そんな中、トルコ兵だった父親の平明丸での体験をホームページに載せていたムスタファ・ドクルさん(シェナイさんの父親)と出会ったのです。彼が父親の軌跡を追っていたことを知り、彼の目を通してドキュメンタリーを作成しようと思いました。

トルコ兵の孫のシェナイさん:
祖父から伝えられた話の中で父と私の心に最も響いたのは、津村中佐がイタリアの島でトルコ兵らと別れる際、全員にひとりずつ声をかけたことでした。訪日前に祖父の墓参りをしましたが、津村中佐の孫である赤澤周平さんと日本で初めて会ったのも中佐の墓前でした。その墓に眠る津村中佐と祖父が一緒にいたのだと思うと、とても感慨深かったです。赤澤さんは「100年近く経った今も、トルコで自分の祖父のことが忘れ去られていなかったことに感銘を受けた」と話していました。完成した映画を初めて見たとき、(祖父の平明丸での体験を追った)父が「お父さん、私はあなたを見つけたよ!」というシーンで、私は涙が止まらなくなりました。父による「父親探しの旅」がこれで報われたのだと感じました。平明丸でつながったこの縁こそが、祖父が私たちに残してくれた遺産だと思っています。

津村中佐の孫、赤澤周平(右)さんと対面したシェナイさん(左)

監督とシェナイさん一家は、津村中佐の孫である赤澤さん一家をトルコに招き、平明丸に救われたトルコ兵の遺族と一堂に会することを心待ちにしている。全員で、この「津村諭吉中佐通り」を歩くのが夢だという。新型コロナウイルスが収束し、1日も早くその日が訪れることを願いたい。

【執筆:イスタンブール支局 土屋とも江】