プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績・伝説を徳光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

俊足・巧打・堅守で8シーズンで打率3割超え。横浜大洋「スーパーカートリオ」の1番バッターとして活躍、アテネ五輪で守備・走塁コーチを務め、現在は解説者として活躍する“レジェンド”高木豊氏に徳光和夫が切り込んだ。

徳光和夫:
さあ「プロ野球レジェン堂」でございますが、今回も大変素敵なゲストをお迎えすることができました。
横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)で俊足・巧打、そして堅守のこの3要素のすべてをかなり高いレベルで成績を残してまいりました。盗塁王、さらにまたダイヤモンドグラブ賞にも輝きました高木豊さんでございます。
どうぞよろしくお願いします。

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高木豊:
よろしくお願いします。

高木豊(66):
1980年大洋ドラフト3位。盗塁王1回・ベストナイン3回・ダイヤモンドグラブ賞1回。8シーズンで打率3割超え。横浜大洋「スーパーカートリオ」の1番バッター。アテネ五輪で守備・走塁コーチ。

徳光:
豊さんは、長嶋さんが大変高く評価していた選手で、その指導力っていうんでありましょうか、確かアテネ五輪の時に長嶋監督でコーチの指名を受けられましたよね。

高木:
そこから来ますか。
その話から行くと、しゃべれなくなる可能性がちょっとあるんで。

徳光:
ただ高木さんね、俺も本当に6月3日はかなり泣きました、正直なところ。
ただあらためてうちにある映像なんかを見てみますと、あの人はメソメソした顔とかね、もうなんだろうな、明るい昭和の太陽みたいな表情ばっかりじゃないですか。
この人をつまり、俺たちにもし伝えていくんだとすると、やっぱり明るく伝えなければいけないっていうような気持ちを切り替えてですね、ようやく夜の番組に出られたんですけどね。そうじゃないですか。

高木:
実は、僕は外から見ている長嶋さんってそうだったんですよ。ただ同じユニホームを着て、(アテネ五輪)予選の現地に向かう、札幌に向かう前の日の壮行試合で負けたんですよ。
その時には、さすがに長嶋さんも監督もしょげてて。ちょっと暗い顔を見た時に、長嶋さんもやっぱりふさぎ込む時があるんだっていうことで。

徳光:
貴重なお話ですね。
ちょっと話が前後しますけども、「長嶋ジャパン」のコーチに指名を受けられました時は、どんなお気持ちでした?

高木:
いやまさかと思いましたよ。

徳光:
まさかですか。

高木:
いやいや、長嶋さんの人脈ですよ。長嶋さんが声をかけたらどんな人だって、ふたつ返事でOKするでしょ。まさか僕に来るなんて思ってなかったんで、びっくりしましたよ。
でもちょっと震えが来たというか、この責任の重さに、ちょっとどうしようかなって一瞬迷いましたけど。
まあ断る理由もないし。
やっぱり長嶋さんと同じユニホームを着られるという、こんなことってないじゃないですか。

徳光:
それはやっぱりさかのぼりますと、少年時代からミスターへの憧れみたいなのがあった。

高木:
それはもちろんそうですよ、話には聞いてましたけど。
初めてですよ、長嶋さんを見た時に、人のオーラっていうのを感じたのは。

徳光:
初めてお目にかかったのはいつだったんですか?

高木:
僕はキャンプで、(巨人の監督を退任した)長嶋さんがキャンプに来られた時で。
田代(富雄)さんの足を踏みながら指導してた時ですね。

徳光:
田代さんの足を踏みながら。

高木:
「いや顔がえらい近かったですね」って言ったら、「離れようと思っても長嶋さんが俺の足を踏んでて離れられなかったんだ」っていう。
えらく、つばが飛んでくるけど、長嶋さんのつばだったら大丈夫かみたいな。
でもその時に、田代さんを指導されてる時のそのオーラっていうのが、ああすごい人なんだなと思って。

徳光:
その時も感じましたか?

高木:
感じました。

徳光:
指導してる時も。

高木:
感じました。

幼少期に父親が買ったバッティングマシン伝説

徳光:
山口県(防府市)出身ですよね。で、結構転々とされてました。

高木:
記憶にはあんまりないんですけど、福岡行って。記憶があるのは鹿児島、愛媛。で、帯広。

徳光:
帯広にも行ってらした。

高木:
山口に帰ってきたんです、僕だけ。野球をやりに。

徳光:
のために。

高木:
当時、高校に進学するのに、当時の北海道ってレベルが低かったんですよね。だからちょっとより高いレベルのところでやりたいということで、山口に単身で戻ったという。

徳光:
少年時代は、野球選手を志していたんですか。

高木:
父親が会社員だったんですけど、バッティングマシンを購入して。

徳光:
え?

高木:
会社に。たぶん会社の野球のチームを作ったんですよ。

徳光:
お父さんが。

高木:
たぶん社員に打たせたいと思ったんじゃなくて、僕に打たせたいがために、会社の金で買ったんじゃないかっていう。社宅だったんで、子どもたちたくさんいたんですよ。だから僕らのために買ったのかなみたいな。

徳光:
いくつぐらいですか、それ。

高木:
それがやっぱり10歳とか。

徳光:
10歳ごろに。

小学4年生の高木豊氏
小学4年生の高木豊氏

高木:
ちょうど『巨人の星』が始まったころですよね。
そのぐらいからです。野球を意識したのは。
『巨人の星』が漫画で始まった時に、終わったらランニングしてましたもんね、自分で。

徳光:
すごいですね。

高木:
だから母親なんか「毎日やってくれたらいいのに」みたいな。「毎日走りに行くんでしょあんた」とか言われて。

徳光:
自分でやっぱり取り組んでいくっていうタイプなんだね、高木さんはね。

高木:
僕ね、小さいころから友達とひと通りの野球が終わるじゃないですか。そしたら昔、瓦屋根ですよね、だいたいの家が。うちもそうだったんですけど。
その屋根にボールを投げて、瓦だからイレギュラーしてくるんですよね。
どこに落ちてくるんだと思って、こっちだと思って反射神経みたいなのを自分で鍛えてたとか。
石巻いて、こうやってイレギュラーしたら、こうやって取る練習とか、結構自分で。
周りから見たら、あの子はおかしいなっていうようなことはたぶんしてたと思いますよ。

徳光:
“創意工夫野球”ですね。