そこに個人差は考慮されないので、たとえば、慢性的な腰痛に悩まされて動くのがやっとな人も、毎朝5キロ走ってから出社するくらい若々しい人も、年齢が同じであれば、基本的には同じように定年を迎えます。
生物学的な実情はそれぞれ違っても、社会的な取り扱いはまったく同じ、というわけです。
実は会社のための制度
たとえば、個々人の心身の状況やライフプランに応じて、定年の年齢(「社会的な老い」の線引き)を柔軟に設定することができれば、それぞれの生物学的な老いとのバランスは取りやすくなるのかもしれません。
また、そういう制度であれば、「体が現役」のうちに仕事をやめて自分の好きなことに時間を使いたいという人のニーズにも合わせられるでしょう。しかし、社会システムにとってそういう個人差への配慮というのは本質的ではありません。
定年制度だって、体力的に働くのがつらくなった社員を労ねぎらうためのものではなく、本当の目的は組織に新陳代謝をもたらすことなので、要するに会社のための制度なのです。人材の入れ替わりがなければ若い世代に機会が回らず、組織として停滞することにもなりかねませんからね。
だとすれば、社員の待遇を「いつから、どこまで」というかたちで画一的に整理しておいたほうが、会社にとっても何かと管理しやすいのは確かです。
だから、一定の年齢でいったん区切りをつける定年という仕組みそのものは、今後も当たり前に維持されていくと思います。そもそも日本で定年制度が広く普及したのは高度経済成長期のころでした。
当時は平均寿命そのものが現在よりずっと短く、1960年時点で男性は65歳ほど、女性も70歳前後です。つまり、「定年=60歳」という線引きは、余生に入る年齢としてはちょうどよく、社会的に老いる時期と、生物学的に老いる時期とが割とうまく合致していたのだと考えられます。
ところが現代では状況が大きく変わりました。平均寿命は大きく延び、60代でもいわゆる「現役時代」と変わることなく、まだ十分に働ける人はたくさんいます。
その結果として、「社会的な老い」という「ラベル」のほうが先行してやって来てしまい、もっと先にあると思っていた「老い」を早々に自覚させられることになっているのです。
