3年後の第二回内国勧業博覧会でも事務官をつとめ、以後、最後の第五回までずっと博覧会に関わりつづけることになった。このほか、国内の展覧会や博覧会の多くを主導していった。

薩摩屋敷に「博物館」

続いて、芳男の博物館創設事業について語ろう。

文部省博覧会後も1と6のつく日に湯島聖堂で多くの品々が公開されていたが、この展示品はやがて、書籍館とともに内山下町の建物に遷された。

薩摩藩の屋敷があった場所である。芳男の上司・町田久成の出身藩であり、薩摩屋敷の表門には「博物館」と大きな門額が掲げられた。

芳男は、かつて見たフランス国立自然史博物館のような動物園や植物園が付属する巨大な博物館をつくろうと考え、その構想を町田久成とともに内務省に提出した。大久保利通も殖産興業のため博物館は必要だと考えていたので、博物館計画は内務省に認可され、場所は上野戦争で寛永寺の建物の多くが燃えてしまった上野山と決まり、上野公園は内山下町の博物館の所管となった。

明治11年に大久保が暗殺されたことで計画はいったん暗礁に乗り上げたが、その後、農商務省が計画を継承することになり、芳男は農商務省の役人として博物館事業を推進していった。有名なイギリス人建築家・コンドルの設計で本館の建設がはじまり、明治14年1月に竣工した。また博物館の付設として動物園の建設が進んでいった。