1993年に鹿児島を襲った8・6豪雨災害では、土砂崩れや河川の氾濫による死者・行方不明者が49人に上った。災害から32年となる2025年、流れ込んだ土砂によって9人の入院患者が犠牲となった旧花倉病院の取り壊しが始まっている。遺族は災害の悲惨さを伝える建物がなくなることへの複雑な思いを語った。

9人の命が奪われた悲劇の現場

1993年8月6日、鹿児島市を中心に降り続いた猛烈な雨によって各地で土砂崩れが発生し、死者・行方不明者は49人にも上った。当時、国道10号沿いの竜ヶ水地区と花倉地区でも大規模な土石流が発生し、花倉病院では入院患者9人が流れ込んできた大量の土砂の犠牲となった。

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被災当時の花倉病院=1993年
被災当時の花倉病院=1993年

その後、花倉病院は移転し、跡地の建物(旧花倉病院)は被災当時のまま残されていたが、6月、国道10号鹿児島北バイパスの工事のため、取り壊しが始まった。建物は工事用のシートに覆われ、その姿を直接見ることはできないが、シートの裏からはコンクリートを壊す大きな音が時折響いている。

取り壊し工事が進む旧花倉病院=2025年
取り壊し工事が進む旧花倉病院=2025年

遺族の思い ― 受け入れざるを得ない時代の流れ

田中美代子さんは、花倉病院に入院していた父親の鶴田勇さん(当時59歳)を8・6豪雨災害で亡くした。災害から32年がたとうとする今、被害の象徴とも言える旧花倉病院の取り壊しについて、田中さんは災害の悲惨さを伝える建物がなくなる寂しさを感じるという。

「父親がこうして亡くなったことが30年以上たっても、旧花倉病院に行くと思い出す。ちょっと寂しい思いがする。もう受け入れざるを得ないというか、時代の流れですから、いつかはなくなるのだろうと話していた」

悲しみと共に現実を受け入れる覚悟が感じられる言葉だ。

田中さんは弟とともに毎年行ってきた現地での慰霊を、今後も続けていく予定だという。建物はなくなっても、記憶を継承する思いは変わらない。

田中美代子さん
田中美代子さん

災害の記憶と都市の発展

鹿児島国道事務所によると、建物の取り壊し後、跡地は鹿児島北バイパスのトンネルの出入口となる計画だ。

都市の発展と災害の記憶をどう残していくのか。建物という物理的な「記憶の場」が失われていく中で、この災害の教訓をどのように後世に伝えていくかが、鹿児島市民の課題となっている。

「100年に一度」といわれた32年前の豪雨災害。その痕跡が都市の発展とともに姿を変えていく中で、遺族たちの慰霊の思いと記憶の継承は、これからも続いていく。

(前の記事を読む:「親が死んだ場所だから…」毎年8月はこの場所へ 8・6豪雨災害から30年 今も変わらぬ遺族の思い【鹿児島発】

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鹿児島テレビ
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