1993年に鹿児島を襲った8・6豪雨災害では、土砂崩れや河川の氾濫による死者・行方不明者が49人にのぼった。最も多くの犠牲者が出た国道10号沿いの花倉地区と、山間部の皆与志町の遺族に話を聞くことができた。最愛の人を亡くして30年の月日がたつ今、遺族は何を思うのか。

「痛かったかも」畳職人の寡黙な父亡くした姉弟

田中美代子さん(68)と弟の鶴田誓男さん(65)の2人は、1993年8月6日、父親の鶴田勇さんを亡くした。

田中美代子さん(68)
田中美代子さん(68)
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勇さんが亡くなったのは、当時、鹿児島市の花倉地区にあった花倉病院だった。

国道10号沿いでは、竜ヶ水地区でいくつもの土砂崩れが発生したが、花倉地区でも土砂崩れが起き、病院を直撃。入院患者9人が犠牲となり、その1人が勇さんだった。59歳だった。

誓男さんは翌日8月7日にこの場に駆けつけ、父・勇さんの亡きがらを鹿児島市郡山町の自宅に連れて帰った。

病院は当時のまま、今も残されている。

鶴田誓男さん:
親が死んだ場所だから…。大きな岩を抱いて死んでいた。痛かったかも

鶴田誓男さん(65)
鶴田誓男さん(65)

畳職人だったという勇さんは42歳の時、脳梗塞で半身不随となり、以来病院での生活が続いていた。娘の美代子さんは、嫁ぎ先の薩摩川内市からお見舞いに通っていた。

田中美代子さん:
最後に来た時は「またねー」と言って、病室の窓を開けてずうっと見送ってくれたんですよ。7月の中ごろだったと思います。それが最後でしたね

普段は物静かだが、夜にお酒を飲むとよく話す人だったという父・勇さん。特に誓男さんは、高校生のころに母親が長く入院していたため、勇さんと2人で暮らした時期もあった。

「この子(誓男さん)が2人分のごはんと弁当を作っていた」と美代子さんは話す
「この子(誓男さん)が2人分のごはんと弁当を作っていた」と美代子さんは話す

「勇さんは優しかったですか?」と聞くと、誓男さんは「いや、黙っていた人だった」と即答。「ごはんを食べさせれば、辛いとか甘いとか何も言わない。ただ食べるばっかり」だったという。

美代子さんが「父親と2人暮らしだったから、なおさら募る思いはあると思う」と話すと誓男さんは涙をぬぐった。

「父親の分まで長生きしなきゃ」

毎年8月には、この場所を訪れる2人。「やはりここに来れば父と会える気がする」と美代子さんは言う。

突然、父親を失ってから30年。あらためて、60歳手前で亡くなった勇さんへの思いを聞いた。

「自分が60歳を超えた時に『自分もその時の年齢になったんだ』と思った。父親の分まで長生きしなきゃいかんと思いますよね」と話す美代子さん。

誓男さんも「災害がなければ、親父はまだまだ元気です。まだ生きてる」と話した。「気にくわないところもあった」と言うが、「すっじゃった(好きだった)」と、笑顔を見せた。

「手をつかんだが流された」自宅を土砂が直撃 妹を亡くす

鹿児島市皆与志町。中心市街地から北に離れたこの町でも土砂崩れが発生し、犠牲者が出た。

松尾春美さん(68)は、あの日、家の裏山が崩れ、土砂が住宅を直撃。妹の勝子さんを亡くした。

当日、松尾さんは仕事で奄美に出張していたが、テレビのニュースに被災した自宅と泥にまみれた父親が映ったのを見て、急ぎ鹿児島市に戻った。そして無言の勝子さんと対面した。

松尾春美さん:
小児まひで体が不自由で、親父が一度つかまえたけど、2度目の土砂が流れてきて。手をつかんだけど、流されて…

勝子さんの写真など思い出の品は、すべて土砂で流されてしまった。「いつも家にいて鼻歌を歌っていた。痛かったろう、苦しかったろう」と松尾さんは振り返る。

30年がたち、裏山の木々も大きく育つ
30年がたち、裏山の木々も大きく育つ

その後、自宅を再建。裏山には防災対策工事が施され、30年の月日が過ぎた。その裏山の木々もだいぶ大きく育っていた。

松尾春美さん:
あっという間だったですね。また8月6日が来ますが、いま鹿児島市では、あんなに大きな災害がない。死んだ勝子が守ってくれているのかなと…

多くの犠牲者を出した、あの夏から30年。いくら月日が流れても、残された家族が最愛の人を思う気持ちは決して色あせることはない。

(鹿児島テレビ)

鹿児島テレビ
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