1993年8月、鹿児島に未曽有の被害をもたらした「8・6豪雨災害」から30年。あの日、鹿児島市の竜ヶ水地区では、海沿いを走る国道10号が土砂崩れで寸断されて、多くの人が取り残され、犠牲者も出た。あの時、現場では何があったのか。竜ヶ水駅で立ち往生したJRの車掌や乗客の証言で振り返る。
乗客330人の「命」を守るための決断
1993年8月6日、1時間に70mmを超える集中豪雨が鹿児島市を襲った。
この記事の画像(21枚)当時現場を取材したアナウンサーは、「列車が土砂に押しつぶされ断ち切られたようになっています」とその惨状をコメントしている。
土砂崩れが相次いだ竜ヶ水地区では、駅に止まっていたJR日豊本線の車両も土砂に埋まった。その時現場では、乗客の命を守るためのすさまじい決断があった。
JRの元車掌・福田雅人さん:
「よく走るよね」というくらいの雨だった
そう語るのは福田雅人さん(68)。あの日、JRの車掌として姶良市(当時は姶良町)から鹿児島市方面に向かう下り列車に乗っていた。
あたりが薄暗くなり始めた午後5時ごろ、福田さんが乗った列車が竜ヶ水駅に着くと、上りの列車もやってきた。姶良方面はすでに線路に水がたまっていたため危険だと判断した福田さん。上り列車の乗客を自分たちがいる列車に乗せ換え、鹿児島市方面に向かうことを決意した。
当時、竜ヶ水駅のホームには「運転電話」と呼ばれる司令との直通電話があり、福田さんは「早く出せ」、「今乗せ換えました」といったいろいろな情報をやりとりしていたという。
しかし、発車準備が整っても一向に司令室から連絡が来ない。気持ちが焦る中、前方で土砂崩れが発生した。鹿児島駅方向で「パサーッ」という音がして土砂が崩れ、福田さんは「あ、もう行けないな」と確信した。
このままでは駅でも土砂崩れが起きる。そう考えた福田さん、乗員乗客約330人の命を守るための判断を下した。
JRの元車掌・福田雅人さん:
僕も運転士もここにいたら危ないというのは知っていて、とりあえずお客さまには土砂崩れがあったという話はせず、「運行できないので一回下に降りて」とお願いした
通常、災害などで列車が止まった場合、乗客は車内で待機させるのが基本。異例の決断だった。
「パチン!」という音がしたら必死で逃げた
この列車に乗っていた女性に話を聞くことができた。
当時列車に乗っていた女性:
ネットで検索できる時代ではないので、全くその時の状況がわからなくて「どうしたらいいんだろう」と
この時、竜ヶ水では至るところで土砂崩れが発生。その数は約4kmの区間で22カ所にのぼり、寸断された国道10号には車1,200台、約3,000人が取り残されていた。女性は恐怖の中、夜通し国道を歩いて、鹿児島市とは反対側、姶良方面に避難したという。
列車に乗っていた女性:
パチンって石がはじけるような音がしたら何秒後かにゴゴゴゴって音がして崖が崩れてくる音がするのにみんな気づいた。「パチン!」という音がしたらみんな「逃げろ!」っていう感じで、みんな走ってザブザブしながら逃げるっていうのを、夜の間、何時間も繰り返した
一方、福田さんは乗客を崖から離れさせるため駅から国道に降り錦江湾沿いの堤防まで避難した。「これで助かった」、胸をなで下ろしたその時、ごう音とともに水と土砂が勢いよく迫ってきた。
JRの元車掌・福田雅人さん:
バッときて、土砂は先に来ない。水のほうが先に来る。その水で足ですくわれる。だから必死で起きて走って逃げる。「やられた」と思った
まさにこの場所だった。
当時の映像を見ると、列車が土砂に押しつぶされ、一部は海のそばまで流されているのがわかる。もし、あのまま車内にいたら…。
JRの元車掌・福田雅人さん:
変だけど、その時は怖くなくて…。一生懸命気が張っているじゃないですか。巡視船に乗ったら震えた
「少しでも防災の意識を持ってほしい」
陸の孤島と化した竜ヶ水に取り残された乗客たちは、その後、漁船で救助された。最後に福田さんが船に乗りこんだ時、あたりは明るくなり始めていた。
機転を利かせ、多くの命を救った福田さん。しかし、30年たった今も胸に残るのは、あの場所にいた4人の命が失われたことだ。
JRの元車掌・福田雅人さん:
自分の判断でこっちから避難すると決めたので、そこにきているから…嫌だった
あの日から30年、福田さんはこう語る。
JRの元車掌・福田雅人さん:
今まで大丈夫だからというのが通用しないのかなと。少しでもいいので防災の意識を持ってほしいと思います
(鹿児島テレビ)