鹿児島市の原良(はらら)小学校に1冊の文集が保管されている。1993年、いわゆる「8・6豪雨災害」でこの小学校の校区も大きな被害を受けた。文集にはあの日、児童が体験したことがありのままにつづられている。
小学生たちが体験した8・6豪雨災害を、この文集からひもとく。

30年前の豪雨災害で校区に大きな被害

鹿児島市の原良小学校の一室には、8・6豪雨災害に関する資料が展示されている。

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原良小学校・界敏則校長は「8・6豪雨災害から30年ということで、これを機会に子どもたちに防災意識と危機意識を持ってもらいたい」と展示の目的を語る。

学校周辺の当時の地図には「床上」「床下」と赤字で書かれている。原良小学校の校区はあの日、近くを流れる甲突川が氾濫し、広い範囲で浸水した。

地図の中にある鹿児島アリーナは、地下の駐車場から建物内に泥水が流れ込み、階段の下では濁流が渦を巻いていた映像が鹿児島テレビに残されている。

当時の児童が書いた作文集「水害を糧にして」

30年前の記憶が刻まれたこれらの展示物の中に「水害を糧にして」という文集がある。児童たちの作文をまとめたものだ。

「何日も前から降っていた雨が午後からとっても強くなりました。走っている車はタイヤの上まで水がきて、およいでいるみたいでした」

「その日は、ちょうど僕のおたんじょうびで、おかあさんがあちこちにでんわしてもどこにもつうじませんでした」

「家の物もドロまみれです。ものすごくてこんなのがかたづくのかなという感じでした。どこにもつれていってもらえない。ほんとうにいやな夏休みでした」

30年前、児童が体験したり、感じたりしたことが素直な言葉でつづられている。

家族団らんが一転「全部なくなっちゃった」

「あぶない。えり子。早くにげるよ」

避難を促す母親の声から始まるこの作文を書いたのは、当時小学4年生だった善福枝里子さん。今も、両親と弟と4人で同じ原良地区に住んでいる。

あの時は、家族団らんの時間を過ごしていたという善福さんが、当時を振り返った。

善福枝里子さん:
母と弟たちとジェンガ(ゲーム)をして遊んでいた時です。畳の間から水が湧き出てきて、プカプカ浮いてきて、「アッ」と思った時には母が「危ないよ」と言った。いつもと違うんだな、大丈夫かなと

当時住んでいたのは、先ほどの地図で原良東の北区と書かれた、床上浸水した地区だった。

家の中の水位がどんどん上がっていく様子を、善福さんは作文の中でこう表現している。

「タンスや重たいピアノまで傾いて今にも倒れそうです。歩こうとしてもたたみがゆれて歩けませんでした」

善福枝里子さん:
母におんぶしてもらった気がします。母が来る時には水が母の首くらいまで来て、アップアップしながら。私は水泳をしていて日常的に泳いでいたが、初めて水が怖いと思ったのを覚えています

命からがら避難した善福さんたち。いろいろな物が濁流に流される中、両親の表情が今も忘れられないという。

善福枝里子さん:
父と母が「全部なくなっちゃった」と、ポツッて言ったのを覚えています

作文には「お母さんが『赤ちゃんのころの写真やビデオも全部なくなってしまったのね』と残念そうに言いました」と書かれている。

さまざまなものを奪っていった集中豪雨。水が引いた後も、しばらく元の生活には戻れなかった。善福さんは作文に、こう記している。

「水が出なかったり、ガスが使えなかったりしたので、ご飯を食べるのにも困りました。勉強しようと思っても、ノートも鉛筆もありませんでした。ふだん何も思わないで使っていた物が全部大切な物ばかりだと知りました」

「大きな災害があったことを知ってもらった方が」

あの夏から30年。善福さんが今思うこととは。

善福枝里子さん:
日常のありがたさとか、人の温かさを知ることができたので糧になったのでは思う。やはり8・6豪雨災害があったというのを知っていると、雨が降った時に備えられるんじゃないかと思うので、知っててもらった方が良いという気がします

この日、原良小学校の展示室には6年生の児童の姿があった。浸水した地域や土砂災害が記録された地図を見ながら、児童たちは、自分たちが生まれるずっと前にこの地を襲った豪雨災害の爪跡にふれていた。

児童:
もしこのような大きな災害が起きたら、自分たちで行動できるようにしていきたい

水害を糧にして…。先輩たちが残したあの夏の記憶は、後輩たちに引き継がれ続けている。

(鹿児島テレビ)

鹿児島テレビ
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