「自分を神とする」とき、もはや神は必要なくなります。「自分たちは絶対に正しい」という思いは「神様なんてもう要らない!」という宣言と同じなんです。

だからそんな心に対して神様は怒り、こらしめるんです。神様は人間がおごり高ぶって、自分の生活から神様を排除しようとすることを嫌います。

人間同士でも、たとえば子どもはある程度成長すると、自分の生活から大なり小なり親を排除しようとします。

「僕はもうなんでも自分でできるから、親なんて要らない!」と言い出すわけです。それに対して「そうだね、私はもうあなたには要らないね」とその子を放っておいてしまう親はたぶん「優しい親」ではありません。むしろそれは育児放棄です。

神様と人間の関係もそれに似ていると思えば、少しでもバベルの塔のエピソードがわかりやすくなるかと思います。

「でも、そんなに現代社会が神様を排除しているなら、バベルの塔のときのようにまた言葉がバラバラになるんじゃないの?」と思う方もいらっしゃると思います。たしかに現代社会において突然、言葉がバラバラになったという事態は見聞きしません。

しかし現代社会において、人々は明らかに「分断」されています。さまざまな価値観が互いに敵対し合って、相互理解どころか相互対話さえできなくなるような事態は、ここで例をあげるまでもなく、皆さんもしょっちゅう見聞きしているのではないでしょうか。

言語がバラバラになるということがもたらす結果は「相互理解・対話ができなくなる」ということです。

それはつまりお互いに「自分が絶対に正しい」と主張し合い、敵対し合うということです。今の社会、対話が難しくなってきてはいませんか。そう考えればバベルの塔と同じことが現代社会にも起こっていると言えます。

『聖書のなかの残念な人たち』(笠間書院)

MARO(上馬キリスト教会ツイッター部)
キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。約11万人のフォロワーを持つXアカウント「上馬キリスト教会」(@kamiumach)の運営を行う「まじめ担当」と「ふざけ担当」のまじめの方でもある。クリスチャン向けウェブサイト「クリスチャンプレス」ディレクター

MARO
MARO

上馬キリスト教会ツイッター部。1979年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学Contemporary Writing and Production卒。キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。約11万人のフォロワーを持つXアカウント「上馬キリスト教会」の運営を行う「まじめ担当」と「ふざけ担当」のまじめの方でもある。クリスチャン向けウェブサイト「クリスチャンプレス」ディレクター。著書に『上馬キリスト教会ツイッター部のキリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』(KADOKAWA)、『聖書を読んだら哲学がわかった キリスト教で解きあかす「西洋哲学」超入門』(日本実業出版社)、『人生を深めるおとな聖書 教養とはこういうものだ。』(ポプラ社)、『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(だいわ文庫)、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。