人々が「僕たちはもう神様を超えたぞ!もう神様なんて必要ないぞ!それを証明するために天まで届く塔を建てよう!」と大きな塔の建設を始めましたが、それを見た神様が怒って、人々の言語をバラバラにしてその建設を挫折させたという話です。

人類はこれによって、国や地域ごとにバラバラな言語を使うようにされたんです。

神様が怒って国や地域ごとに言語をバラバラにした?(画像:イメージ)
神様が怒って国や地域ごとに言語をバラバラにした?(画像:イメージ)

つまり、この人たちがこんなことをしなければ、僕たちは学校の英語の勉強にあんなに苦労する必要はなかったわけです。なんてことをしてくれたんだ、バベルの人たち!!

この話に対して「いやいや、高い塔を建てて神様に怒られるなら、現代社会を見て神様が怒らないのはおかしい。だってそこら中、高層ビルだらけじゃないか。だからやっぱり神様なんていないんだよ」と言う方もいます。

しかし、神様が怒ったのは建物の物理的な高さに対してではありません。人間が「神を超えたぞ!神なんて必要ないぞ!」とおごり高ぶったことに対して怒ったんです。

ですから、もしバベルの人たちが高い塔ではなく、たとえば「何よりも美しい王冠」とか「何よりもおいしいたこ焼き」を作ろうとしたとしても、その動機が「自分たちが神様を超えた存在であることを示すため」、つまり「自分たちが絶対に正しい存在であることを証明するため」であれば、同じ結末を招いたはずです。

問題なのは行為自体ではなく、動機なんです。

キリスト教における「罪」

キリスト教における「罪」には、その根源に「自分を神とする」という心があります。

それは悪魔(蛇)がアダムとエバ(イヴ)に禁断の実を食べるようにそそのかしたとき、「これを食べたらあなたも神様のようになれますよ」と言ったことからもわかります。

2人は「自分も神様のようになりたい」と願って、あの実を食べてしまったんです。