「こんなところに入っていいのか。凄いメンバーですよ、雲の上の人ばかりですから」

こう話すのは、長嶋茂雄、王貞治、稲尾和久らと並び、80歳を超え野球殿堂入りを果たした権藤博さんだ。

1961年(昭和36年)、中日ドラゴンズに入団した権藤さんは、入団3年間で130試合登板69回を挙げる。

しかし年間の試合数の半分を超える登板で故障を抱え、プロで9年、投手としては5シーズンで引退。一方、指導者としては中日、近鉄バファローズなどで投手コーチを歴任した。

また、横浜ベイスターズの監督として日本一に輝き、投手コーチを務めた2017年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本代表の準決勝進出へとつなぐなど、輝かしい実績を残してきた。

数々の名投手を誘った指導哲学“教えない教え”の源流に迫っていく。

「権藤、ゴンドウ、雨、ゴンドウ」

野球殿堂博物館
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令和元年、新時代初の野球殿堂入りをしたのは、この年に81歳(取材時)を迎えた権藤さん。現役で82勝ながら、指導者としての手腕が高く評価されてのものだった。

感慨深げに歴代殿堂表彰者のレリーフが並ぶ野球殿堂博物館にたたずむ。

野球殿堂博物館

令和元年には、投手生命をめぐるこんな出来事もあった。

163キロ右腕として注目を集めた、当時、岩手県大船渡高校の佐々木朗希投手が、夏の甲子園を目指した岩手大会の決勝で登板を回避。その起用法を巡り批判的な意見も多かった中、権藤さんは「素晴らしい英断だと思います。間近で見ている監督が違和感を持ったんですよ。ピンピンだったら投げさせますよ。そこを敢えてやめたというところがすごい。これぞ監督です」と話した。

「巨人・大鵬・卵焼き」が流行語になった1961年(昭和36年)、4月19日、中日球場で行われた、対巨人戦で権藤さんはその名をとどろかせた。

当時22歳。中日のルーキーとして、このとき4試合目にしてすでに2勝を挙げていた。4番の長嶋茂雄さんを中心とした強力な巨人打線が相手でも、跳ね上がるような投球フォームで堂々と立ち向かい被安打3で完封勝ちを飾った。

現役時代の権藤さん

そのピッチングは読売ジャイアンツ(以下、巨人)にも衝撃を与え、元プロ野球選手で現在は福岡ソフトバンク球団会長の王貞治さんは「すごい人が入ってきたと最初は感じました」と振り返った。

王貞治さん

当時、巨人に入団してプロ3年目だった王さんの打順は2番だった。

王さんは権藤さんを「その頃は手も足も出ない。権藤さんの球にキレがありました。フォークボールが近づいてくるのではなく、遠くへクッとくるので、バットの先に当たると空振りになったり。今そういう球を投げる人は多いですが、当時はほとんどいなかったので、“魔球”みたいな球でした」と評した。

868本塁打の不滅の記録を持つ“世界の王”と権藤さんとの対決は通算11本塁打24三振。2人はライバルだった。

「開幕から1ヵ月くらい経って5勝くらいしたときから、ライバルはよそのチームのエースでした。だから、他チームのエース級ピッチャーを意識していました」と話す権藤さん。先発からリリーフまでフル回転での登板でも結果で応えた。

4月は8試合、5月は11試合、6月は10試合、7月は雨で試合が中止の翌日に完封勝利、その翌日に雨と移動日を挟み、完封勝利を挙げ、再び雨と移動日を挟み先発、次第に、その連投に次ぐ連投は「権藤、ゴンドウ、雨、ゴンドウ、雨、雨、ゴンドウ、雨、権藤」と呼ばれるようになっていった。

権藤博さん

「投げた翌日は、権藤、ゴンドウ、雨、ゴンドウ…が始まる。接戦になると5回過ぎたら監督が『ゴン、行くぞ』って出てきますから。(点差が)離れているか、離されているか、そのときだけはベンチで『今日は投げなくていい』って思っていましたから」

当時の権藤さんの活躍を王さんは「本当にチャンスがあるときは絶対に投げてきます。3試合のうち2試合を投げたり。優勝するためには選手の寿命のことを考えるよりも、勝つためにすべて使えるものは使う、そういう時代でしたから」と話した。

この年の中日は、72勝56敗2分でセ・リーグ2位。そのうちの35勝をルーキーの権藤さんが挙げ、69試合に登板。新人王は勿論、最優秀防御率や最多勝利、最多奪三振と当時のタイトルを独占し、沢村賞を受賞した。

エースとして活躍したが…

佐賀県で1938年(昭和13年)に3人の姉に囲まれ、4人きょうだいの末っ子として生まれた権藤さん。

小学3年生のときに、父・樹(しげる)さんを亡くし、母・初代さんが女手一つで育ててきた。「本当に厳しかった。最後まで子ども扱いだった」と母親のことを語る。

幼少期に佐賀で終戦を経験した。モノのない時代の男の子にとって、野球は唯一の娯楽だった。それは次第に権藤さんの夢へと変わり、中学に続いて県立鳥栖高校へ進学してからも野球部に入った。

権藤さんがピッチャーとして活躍するようになったのは高校2年生の秋から。背が高く、肩が強い、理由はそれだけだった。

高校最後の夏の大会でベスト4に進出し、卒業後は福岡久留米市の社会人野球ブリヂストンタイヤに入社。

「パンや牛乳が10円の時代にビールが100円くらい。先輩がビールを買ってきて。ビールなんて飲んだことなかったけど、“頑張ったらビール”といつも思っていた」

当時の若者にとって「夢」「富」の象徴が1杯のビールのうまさだった。

そして、権藤さんは憧れだった西鉄ライオンズの投手・稲尾和久さんを徹底的にマネしながら日々、鍛錬を続けた。

稲尾さんは1957~59年(昭和32~34年)に3年連続30勝を挙げるなど、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた西鉄のエース。

「格好良い、ああなりたい」と憧れる稲尾さんを徹底してマネすることから始まり、磨き上げた直球と大きなカーブは、複数の球団の目に留まり、憧れだった巨人との交渉に進んだ。

ドラフト制度が導入される以前の当時のプロ野球は、選手の獲得は自由競争だった。

「巨人の代表は『君は絶対に欲しいから、条件を言ってくれと。他より高く出す』と言うんですが、自分がどれくらい評価されているのか分からない。他よりと言われても300万円なのか、500万円は出さないだろうとか思ってしまうわけです」

金額提示のなかった巨人に対し、中日は700万円を提示。ちなみに、この当時のサラリーマンの平均年収は約30万円。

こうして権藤さんは「野球は巨人」と言われていた時代で、具体的な条件提示のあった中日へ入団することを決める。その理由について「オレには東京じゃなく名古屋くらいがちょうどいいのではないか?」という思いもあったと明かす。

しかし、「巨人が条件提示していたら契約していました。当時の監督の水原茂さんから『頼むよ』と言われていたら『はい』で終わりです」と振り返った。

中日に入団し、1年目はエースとして最高の形でシーズンを終え、2年目の1962年(昭和37年)はチームの中心になった。

7月はわずか半月で4度の完封、前半戦の最後には自身初の6連勝を飾り、再び連投を重ねていく。しかし、このときすでに疲労はピークだった。

福岡にある平和台球場跡地は、権藤さんが2年目にオールスターに出場し、憧れの稲尾さんと投げ合った思い出の場所。

平和台球場跡地を訪れた権藤さん

この地を訪れた権藤さんは「2年目はフラフラだったんです。最初は調子が悪くて、オールスターまでに結局16勝。オールスターの頃はフラフラでキャッチボールでもヒューって沈んでいった」と語った。

この年も61試合に登板し、30勝を挙げ、2年連続の最多勝利を獲得。しかし、右肩を酷使してきたため、3年目は10勝、4年目は6勝と勝てなくなる。代償はあまりにも大きく、勝てないことで焦り、痛む右肩の恐怖も襲った。

5年目からは内野手へ転向。だが、思うような成績を残すことが出来ず、在籍9年の1969年(昭和44年)に引退した。

アメリカで出会った指導哲学

権藤さんは今でも名古屋で暮らしている。社会人時代に知り合った妻とはプロ入り4年目で結婚。31歳で現役を引退した権藤さんは、家族を養うためにプロ野球界からのオファーを待ち続けた。

日本がオイルショックに見舞われた1973年(昭和48年)に、34歳で中日の2軍投手コーチに就任する。ここから権藤さんの「指導者」という新たな野球人生が始まった。自身の現役時代の経験から選手の痛みを理解し、寄り添うことに努めたという。

そして自費で訪れたアメリカのルーキーリーグで、のちのコーチングの礎となる出来事と出会う。

現地のコーチの「Don’t over teach(教え過ぎるな)」という指導哲学。

これを目の当たりにしたとき、権藤さんの心に衝撃が走ったという。自らの現役生活で経験した絶望の時間と、この体験がのちに「教えない教え」という独自の指導哲学の形成につながっていく。

「できないから教える。知らないから教える。でも、日本の野球はレベルが高いので、できない人や分からない人もいないんです。なので頑張り方を教えた。『あなたはこの球で勝負しなさい』『この速さで勝負しなさい』と。それを教えるのがコーチの仕事」

1981年(昭和56年)、8年間の2軍投手コーチを経て、中日1軍投手コーチに就任してからは、当時の近藤貞雄監督のもと、投手分業制を確立。先発、中継ぎ、抑えと近代的な継投理論を提唱し、投手寿命を延ばすことに力を注いだ。

「選手の痛みが分かるのは、3年目から苦しんで挫折を味わったから。それがコーチとして生きた」と権藤さんは言う。

そして1982年(昭和57年)には、中日が8年ぶりにリーグ優勝を飾る。

しかし、投手起用を巡って近藤監督の采配に疑問を感じるようになった。

日本がバブル景気に沸いた1988年(昭和63年)に、中日一筋だった権藤さんは当時の近鉄バファローズの監督だった仰木彬監督に招聘(しょうへい)され、49歳のときに近鉄一軍投手コーチに就任。

その当時の近鉄でプロ4年間にしてわずか2勝だった吉井理人さんは、権藤さんの指導の元、クローザーとして大ブレークする。「Don’t over teach」という権藤さんの“教えない教え”はどんなものだったのか。

吉井理人さん

「『お前たちはプロなんだから技術はこっちから教えるものは何もない。マウンドで戦う姿勢を見せてくれ』と。逃げたら怒られました。『打たれたらオレの責任だから、思い切ってどんどん行け』と言われていて、そのおかげで大事な場面でも変な緊張をしないで投げられたと思います」

前年リーグ最下位だった近鉄は投手陣が奮闘し、西武ライオンズとの優勝争いに持ち込む。そして、優勝を分けた、のちに「10.19」と呼ばれるダブルヘッダーへ。1試合でも敗れるか、引き分けるかで、西武の優勝が決まるため、近鉄が優勝するには連勝するしかなかった。

吉井さんは「特別な1日でした。2つ勝てば優勝というゲームで、2試合とも投げさせてもらったんですけど、血が沸騰するくらい興奮しながら投げました。そんな中でも権藤さんは『負けたらこっちの責任だからどんどんいけ!』としか言わなかったんです」と振り返る。

1試合目では辛くも勝利するが、2試合目では延長の末に引き分けたことで、近鉄は優勝を逃した。

それから平成を迎えた1989年(平成元年)には、前年の悔しさをバネに、近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を果たした。

しかし1年の契約期間を残し、権藤さんは自らチームを去ることになる。選手から信頼され、リーグ優勝もしたが、仰木監督との度重なる衝突によりユニフォームを脱ぐことに。

監督として日本一にも輝く

現在、千葉ロッテマリーンズで投手コーチを務める吉井さん。指導者になった今だからこそ、気づいたことがあるという。

「自分がピッチングコーチになって監督と揉めることは絶対にある。ピッチャーを1年間持たそうと思ったら監督とぶつかるんです」

権藤さんは複数の球団で1軍の投手コーチを務め、初年度のチーム防御率をいずれも前年よりあげてきた手腕が球界でも評判になる一方で、選手に寄り添おうとした権藤さんと上に立つ監督とで衝突を繰り返した。

権藤さんは「決めるのは監督だと分かってはいるんです。だけど、あなたが私を呼んだんじゃないんですかと。だから私は言うんですよ。だんだんとやっかみが多くなり、最後は別れなきゃいけなくて」と複雑な心境を明かし、「もし自分が上に立つようになったら、絶対に同じことはやらない」と決意したという。

マネから始まった現役時代とは異なる「自分ならこうしない」という「べからず集」を蓄積していった。

長野オリンピックが開催された1998年(平成10年)に、権藤さんは59歳で横浜の監督に就任した。

ここでも「教えない教え」を実践し、さらに「オレを監督と呼ぶな、権藤さんと呼べ」と指導した。

1998年のシーズンが開幕し、権藤さんの教えは野手陣へと伝わり、リーグトップの打率を誇ったタレント揃いのマシンガン打線で中心を担い、サイクル安打を史上唯一3度達成したロバート・ローズさんは「最高のボス」と慕った。

ローズさんは「タレント揃いのメンバーが集まったチームだと権藤さんは感じていたと思う。そして、彼はメンバーをのびのびプレーさせた。良いチームの良い監督はそういうものです」と当時を振り返る。

阿波野秀幸さん

この年、トレードで近鉄から横浜へ入団した阿波野秀幸さん。

かつての近鉄エースは過去5年でわずか1勝と苦しんでいたが、自己最多の50試合に登板し、見事復活を果たした。そこには中継ローテーションを導入という背景がある。

阿波野さんは「ブルペンメンバーの中で『連投がない』ということを話すようになって、これは監督が意図的にやっているんじゃないかと。『勝ってる人しか投げないんでしょ』みたいな雰囲気ではなく、『今日はオレか!』みたいな雰囲気でした」と語る。

佐々木主浩さん

そんな投手陣の象徴だったのが、絶対的なクローザーであった佐々木主浩さん。「(権藤さんは)ブルペンにずっといますけど、無駄なことは言わない。『任せた』で終わりです。打たれようが、何しようが『お前に任せたから』という感じでした」と笑った。

こうして1998年には横浜が38年ぶりのリーグ優勝、そして日本シリーズで日本一となった。この夜、権藤さんは横浜スタジアムの中心で10回宙を舞った。

「権藤さんを胴上げしたいと思っていましたし、何回が最高なのか胴上げの回数も調べました。なので、最高記録を出しました」と佐々木さんは笑う。

77歳で日本代表のコーチにも

横浜のユニフォームを脱いで16年が経った2016年(平成28年)、権藤さんに新たな話が舞い込んでくる。依頼主は当時の侍ジャパンの監督、小久保裕紀さん。

「2015年のプレミア12準決勝の日韓戦で逆転負けをして。その中で電話を頂いて反省会をしようと言ってくれた」と小久保さんは話す。

福岡県・博多まで足を運んだ権藤さんと野球談議に花を咲かせたのち、2人で1杯290円のラーメン店に入った。このときに小久保さんは権藤さんに「力をお借りしたい」と頭を下げたという。

こうして77歳にして侍ジャパンのユニフォームの袖をとした権藤さん。ここでも権藤さんは、小久保さんも舌を巻くほどの手腕を発揮した。

「印象に残っているのはオランダ戦です。予想通りの乱打戦になり、こっちが5点取ってもすぐに追いつかれるので、1イニングでも早く千賀(滉大)につなげたかった。けれど、権藤さんは『監督、こういう乱打戦は誰が投げても一緒です。経験がある平野(佳寿)にいかせましょう』」

そう小久保さんに助言し、実際に平野投手(当時はオリックス・バッファローズ、2020年はシアトル・マリナーズでプレー)を登板させたことで、試合の風向きが変わった。

だからこそ小久保さんは「もう1イニングいきましょう」と権藤さんに言ったというが、「監督、そこが甘いんです。この展開でスパッと帰ってきた平野の仕事はこれで終わりなんです。この次が千賀なんです」と返されたという。

そこから試合は投手戦へと変った。日本の準決勝進出へとつないだ試合でもあった。

小久保さんは「驚きのオランダ戦でした」と振り返る。

時は経ち、2019年12月2日。権藤さん81歳の誕生日に開かれた野球殿堂入り祝賀パーティー。かつての戦友たちが顔をそろえた。

彼らは権藤さんについてこう語る。

入団時の投手コーチが権藤さんだった鈴木孝政さんは「太く、短く生きたプロ野球選手です。苦労を知っています。でも、苦労は見せません。人の痛みをよく知っている人です」と話した。

1998年に佐々木さんと最優秀バッテリー賞をもらった谷繫元信さんも「選手を守ってくれる方でした。ピッチングコーチのときも監督のときも。選手側に立ってくれる」と語る。

“ハマの番長”こと、三浦大輔さんは「ピッチングで攻めて貫けと。逃げの投球をしてベンチに戻ってきたときには権藤さんから怒られた印象があります」と笑う。

祝賀パーティーのスピーチで権藤さんは「これだけの人がお祝いに来てくれたことが一番です。友達は財産。友達をいくらもっているかだと思います。家族にもありがとう」とコメントした。

太くて短かった現役時代。経験した痛みがあったからこそ、気づくことができた“教えない教え”。

最後に「権藤博という生き方はいかがですか?」と問うと、「権藤博は苦しんだけど、思ったことは遠慮しながらやってきた。人よりはやれたと思う」こう締めくくった。

(第29回ドキュメンタリー大賞『権藤 ゴンドウ 雨、ゴンドウ ~壊れた肩が築いた“教えない教え“~』)