小泉家は3男1女の子沢山。長男・一雄は11歳の小学生で、子供たちにはまだ手がかかり金もかかる。この頃はまだ義母トミや実母チエも存命していたが、その扶養にくわえて800坪にもなる屋敷の維持管理費、等々。月々の負担はかなりのもの。ハーンが残してくれた貯蓄はいずれ尽きるし、印税収入も年々先細ってゆくだろう。

そうなる前に手を打たねばならない。

ハーンが最後に教鞭をとった早稲田大学。手前は創始者の大隈重信の像
ハーンが最後に教鞭をとった早稲田大学。手前は創始者の大隈重信の像

その一手として屋敷の敷地に借家を建てた。大正3年(1914)には付近に山手線・新大久保駅が開業し、駅を中心に街並みができつつある。大正期には東京を代表する高級住宅地に発展するのだから、借家経営は先見の明だった。

同郷の親類縁者の助け

借家の建設資金は、ハーンの著作権をアメリカの出版社に売却して捻出した。これは東大講師の法律学者・梅謙次郎のアドバイスによるもの。彼は松江出身でセツの遠縁にあたる人物だった。他にも松江出身の歴史学者・三成重敬など、同郷の親類縁者が色々と世話を焼いてくれる。

セツは故郷・松江に帰郷するのを極力避けていた。ハーンと暮らし始めた頃に“らしゃめん”“洋妾”などと蔑まれた屈辱は、いまも忘れることができないトラウマになっている。しかし、夫を失い先々の不安にかられる未亡人には、親身になってくれる同郷者の存在が嬉しくありがたい。

終の住処があった東京・新宿区大久保にある小泉八雲記念公園
終の住処があった東京・新宿区大久保にある小泉八雲記念公園

また、生前のハーンと交流があった人々も、セツや子供たちのことを気にかけて様々な手助けをしてくれる。なかでも、最も親身になって世話を焼いてくれたのが、横浜グランドホテル社長のマクドナルドだった。

マクドナルドはハーンの遺産管理人となり、著作権などに関して出版社と折衝し骨を折った。また、遺児の一雄が大正6年(1917)に早稲田大学を卒業すると、自分が経営するグランドホテルに就職させている。一雄を自分の後継者に育てるつもりだった。大量の自社株を一雄名義に書き換えるなどして、その準備を着々と進めていたという。

一雄もマクドナルドを信頼し、ハーン亡き後は父のように慕っていたのだが…残念なことに、関東大震災でグランドホテルは焼失して廃業。この折にマクドナルドも被災して亡くなってしまう。

一雄はマクドナルドの死にショックを受けた。ハーンの神経症気質を受けついだ彼は、病を得て引きこもってしまい、セツの心労を増やすことになる。

“恋敵”と亡夫の思い出を語り合う

ハーンの友人のなかで、マクドナルドとともにセツや遺児たちを手厚く支援していたのが、エリザベス・ビズランドである。