飯田で生まれ植物が身近に

田中芳男は、もともと幕府の家臣ではなかった。天保9年(1839)に田中隆三の三男として飯田城下(長野県飯田市)の千村陣屋(千村役所)で生まれている。飯田(二万石の外様大名の城地)は交通の要衝で信州の小京都といわれ、信濃国の文化・経済の中心地でもあった。

千村陣屋というのは、幕府の旗本(同時に尾張藩の家臣でもある)・千村平右衛門が下伊那地方の榑木(くれき)山(幕府の直轄林)を管理し、周辺の村々から年貢を徴収するために置いた役所のことである。

隆三は、そんな千村陣屋の漢方医として仕えていた。芳男も幼い頃からそんな父と共に野山で多くの植物を採取し、製薬にたずさわっていた。おのずと本草学(今の薬学、博物学)に関心を抱くようになり、自宅の蔵書や近くの市岡家(同じく千村陣屋に勤める知識人)の蔵書などを片っ端から読破し、高度な知識を蓄えていった。

芳男には文輔という兄がいたが、若くして病死したため、17歳で家督を相続することになった。ただ、19歳の安政3年(1856)、父の勧めもあって大都市・名古屋にのぼり、尾張藩の儒者・塚田某から漢学を学び、翌年からは伊藤圭介に師事して蘭学や本草学を習いはじめた。

じつは隆三も長崎に遊学した経験があり、知的好奇心の強い芳男にも、高度な学問を学ばせてやりたいと考えたのかもしれない。

師・伊藤圭介とは?

芳男の師・伊藤圭介は、長崎でドイツ人医師・シーボルトから直接教えを受けた門人の一人である。のちにシーボルトから西洋の顕微鏡や『ターヘル・アナトミア』(ドイツ人医師クルムス著のオランダ語版解剖学書)など、貴重な品々を贈られているので、お気に入りの弟子だったのだろう。