京都の家屋の屋根に飾られる「鍾馗」さん、そして沖縄の家屋の屋根に飾られる「シーサー」。風姿は異なるが、どちらも魔除けの象徴と言われている。
京都と沖縄で二拠点生活をする、作家・沖縄大学客員教授の仲村清司さんは、「京都と沖縄は似ているところがある」とする。
そのきっかけは「魔除けの代名詞」である鍾馗とシーサーから、「京都人がシーサーを見て鍾馗さんを連想しないのはよほど無神経ではないか。あるいは沖縄人が鍾馗さんを見てシーサーを連想しないというのも同様かもしれない…」と考えたことからはじまる。
著書『日本一ややこしい京都人と沖縄人の腹の内』(光文社)から一部抜粋・再編集して紹介する。
道教系の神様「鍾馗さん」
鍾馗(しょうき)さんとは中国の古代民間信仰に発祥する道教系の神様のこと。本来は「鍾馗」でいいはずだが、京都では名詞に「さん」をつけるのが通例。
たとえば、「お豆さん」「お日さん」「おはようさん」「天神さん」といった具合に食べ物やあいさつ、神仏にまで「さん」をつける。御所言葉の丁寧語が一般人にも普及した関係で、鍾馗さんもそう呼ばれるようになったのだろう。
道教というのがややこしいのだが、もともとの中国土着の民間信仰に儒教や老荘思想などが混交したもので、ひと言でいえば、現世利益の塊のような信仰で、宗教とはいえないという専門家もいるぐらいだ。
解脱(げだつ)を目的とした仏教とはまったく異なり、無病息災、招福、商売繁盛を信仰の目的とする。祈祷(きとう)や占い、まじないなどによって信仰の道具はいろいろあるが、鍾馗さんはそのひとつで、大きさは約20〜30センチほど。
鍾馗さんは武人なので猛獣のシーサーとはまったく風姿は異なるが、屋根の上にのせられた魔除けとして睨(にら)みをきかせている。
屋根に置かれ京都で睨みをきかす
つまり、風情はシーサーと酷似しているというか同じである。京都の僕の住んでいる家の向かいにも立派な鍾馗さんが屋根に置かれている。
その光景を初めて見た瞬間、僕はすぐにシーサーを連想した。「鍾馗さんを見てシーサーを連想しない〜」と述べたのはほかでもない。