鍾馗さんとシーサーがなぜ屋根に置かれ、魔除けとして同じようにいまでも睨みをきかせているのかという点なのだ。しかも、鍾馗さんはいかつい顔で太刀(たち)を持ち、怒り剥きだしで両目をカッと見開いている。その容貌は、誰が見ても「魔除け」以外の何物でもない。以来、僕はすぐに鍾馗さんについて関心を持ち、その歴史や分布などを調べた。

驚くべきことに、鍾馗さんの信仰が日本に入ったのは奈良時代(710〜794年)というのである。一方の「沖縄といえばシーサー」があたりまえの風景になったのは意外なことに明治22年以降のこと。

それまで禁じられていた瓦葺(ぶ)きの屋根が庶民にも許されてからである。知名度ではいまや沖縄のシーサーが圧倒的に有名だが、歴史をたどると比較にならないぐらい鍾馗さんのほうが古い。屋根の上のバイオリン弾きはいても、民家の屋根の上に据えられた魔除けは、少なくとも僕はこの2つしか知らない。

鍾馗は皇帝の夢に現れた?

などと、思考をめぐらしている間に那覇空港直行バスに遅れてしまい、路線バス経由モノレールに変更する。この代替え手段は猛ダッシュが必要になる。

そうしてこけつまろびつようやく空港に到着し、機内ではいつものA10に着席し、シートベルトを締めるのだが、頭のなかは鍾馗さんとシーサーのことでいっぱいである。

京都の屋根の上で見かける「鍾馗さん」(画像:イメージ)
京都の屋根の上で見かける「鍾馗さん」(画像:イメージ)

実在した人物ともいわれる鍾馗は唐の玄宗(げんそう)皇帝が大病を患ったときに夢の中に現れ、病をもたらした鬼を退治したとされる。鍾馗が述べ語るところでは、自分は科挙(かきよ)(官吏登用試験)に落ちて自死したという。あまりに容貌魁偉(ようぼうかいい)すぎたのが不合格の理由だったらしい。

玄宗は憐れんで正式な儀礼に則り、鍾馗を葬ったところ、彼は世の魔物を退治すべく志すと言上して消えた。同時に玄宗の病が全快したことから以後、神として祀られ、屋敷の門前に鍾馗の絵を描いたものが流行したという。

鍾馗にとっては容貌魁偉の顔が後世名を残すきっかけとなり、神様まで祀り上げられたのだから、世の中というものは何が禍(わざわい)し、何が幸いするかわからない。

あるいはもっといえば、鍾馗がイケメンで科挙に合格していたとしても、後世、名を残すことはできなかったに違いない。と、同じく容貌魁偉でシーサー面(づら)をしている僕はそう信じて疑わないのである。

奈良から京都へ

先に鍾馗は奈良時代に伝来したと書いたが、興味深いのは奈良の東大寺の境内にある茶屋の屋根に鍾馗が置かれている点である。仏教の東大寺と中国の道教は教義としては相容れない関係にあるが、時代を振り返れば理解できなくもない。