羽生結弦の“原点”には知られざる苦闘と絆があった

フィギュアスケートといえば羽生結弦。そう思う人も多いだろう。

しかし、羽生を生んだ宮城・仙台には、もっと長いスケートの物語がある。発祥の地と呼ばれる仙台は、一度“王国”と呼ばれるまでに隆盛し、そして危機に直面し、それでもなお未来をつなごうとする人々の記憶と情熱に支えられている。

2014年五輪の舞台で金メダルを掲げる羽生結弦 少年時代の夢を叶えた背景には絶望と希望の光があった
2014年五輪の舞台で金メダルを掲げる羽生結弦 少年時代の夢を叶えた背景には絶望と希望の光があった
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フィギュア発祥の地 仙台に刻まれた記憶

仙台市青葉区川内。静かな景観が広がる「五色沼」は、かつて仙台城の三の丸北側にあった堀の跡であり、日本のフィギュアスケートの原点とされている。

明治時代、1890年ごろには在仙の外国人が氷上でスケートを始め、1909年には旧制二高(現・東北大学)の学生たちが、ドイツ人教師からフィギュアスケートの基礎を学んだ。そこから日本中へとスケート文化が広がっていった。

国内フィギュア発祥の地とされる五色沼
国内フィギュア発祥の地とされる五色沼

“宮城から世界へ”夢がかなった長野五輪

それから約90年後の1998年、宮城にとって一つの“夢”が現実となる。長野冬季五輪のフィギュアスケート代表に、荒川静香をはじめとする東北高校の選手4人が選出されたのだ。地元で育った若者たちが、世界の大舞台に挑む。「宮城から世界へ」という願いが初めて形になった瞬間だった。

この時代、宮城県内には複数のスケートリンクが存在し、練習環境も比較的整っていた。地元で滑り、地元から羽ばたく。そんな夢を多くの子供たちが抱くことができた。

2006年トリノ五輪 荒川静香の金メダルを祝福する 仙台凱旋パレード
2006年トリノ五輪 荒川静香の金メダルを祝福する 仙台凱旋パレード

相次ぐリンク閉鎖 フィギュア王国は崩壊の危機に

だがその後、宮城のフィギュアを取り巻く環境は厳しい現実に直面することとなる。

リンクの廃業が相次いだのだ。2004年、荒川静香や羽生結弦が練習していた仙台市泉区の「コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク」(のちの「アイスリンク仙台」)が閉鎖。2009年には青葉区の「勝山スケートリンク」も幕を下ろした。

署名は1万7000 閉鎖したリンクに通っていた子供たちも「再開」を呼びかけた(2004年)
署名は1万7000 閉鎖したリンクに通っていた子供たちも「再開」を呼びかけた(2004年)

一時期、宮城県内に複数あったスケートリンクは急速に減り、それに伴って競技人口も激減。2003年からの6年間で県内のスケート選手数は半減した。練習環境を求めて県外へ移る選手も増え、「フィギュア王国・宮城」は地盤そのものが揺らいでいた。

そんな中でスケートを続けていた少年がいた。のちに世界を沸かせる羽生結弦である。

少年時代の羽生は同じリンクで練習していた荒川の存在に勇気づけられた そのリンクが突然消えた
少年時代の羽生は同じリンクで練習していた荒川の存在に勇気づけられた そのリンクが突然消えた

少年・羽生結弦が見た絶望と希望の光

羽生がスケートを始めたのは4歳のとき。だが、競技として本格的に取り組みはじめ、いよいよ全国大会にも出場し始めた矢先、羽生が練習を積んできたリンクが突如閉鎖された。

「これから俺のスケートはどうなっていくんだろうって思いました」

当時11歳の羽生が、仙台放送の取材にそう語っている。リンクを失い、道を見失いかけた少年時代。そんな彼を支えたのは、リンク再開に向けた大人たちの情熱だった。

取材に答える羽生 当時から夢の実現を公言していた
取材に答える羽生 当時から夢の実現を公言していた

リンク再開に動いた“異色の県職員”と民間の力

リンク再開の裏には、一人の宮城県職員の存在があった。名を宍戸秀一。もともと土木課などスポーツとは無縁の部署に所属していたが、リンク閉鎖の1年後、県のスポーツ振興課に異動となる。

「辞めるつもりで頑張ってこい」と背中を押したのは、当時の村井知事だったという。

スケートの知識はほぼゼロ。ショートプログラムとフリーの違いすら知らないところからのスタートだった。しかし宍戸は、リンク復活への署名活動を行う子供たちの願いに心を動かされ、行動に出る。

リンク復活を託された元県職員の宍戸「引き受け先はなかなか見つからなかった」
リンク復活を託された元県職員の宍戸「引き受け先はなかなか見つからなかった」

民間企業との連携に活路を見出し、宍戸は全国でリンク経営の実績を持つ東京都の「加藤商会」に直談判を試みた。当時専務だった加藤松彦氏は、最初は「経営が成り立つわけがない」と断るつもりだったという。

加藤商会 加藤松彦社長(2014年取材当時):
「なのに、どうしてこんなに熱意をもってリンクのことを語るのか。それが心に刺さったんです」

リンクの再開には、初期費用1億5000万円に加え、年間7000万円の運営費が必要とされた。だが、「第二の荒川静香を」「子供たちに夢を」という情熱が、企業をも動かした。

2007年、閉鎖から2年の歳月を経て、アイスリンク仙台は再オープンを果たす。企業広告が並ぶリンクには、県民の“夢の続き”が広がっていた。

当時全国17カ所でスケートリンクを経営していた加藤商会 宍戸と県民の思いに突き動かされた
当時全国17カ所でスケートリンクを経営していた加藤商会 宍戸と県民の思いに突き動かされた

メダルに託した感謝 羽生がつないだスケートの灯

再開されたリンクで、当時小学6年生だった羽生結弦が滑っていた。
そして、その8年後。羽生はソチ五輪で日本男子フィギュアスケート界初の金メダルを手にする。

その凱旋の場で、彼はある人物の胸に金メダルをかけた。宍戸秀一である。

「ありがとうございました」

そう言ってメダルをかけた羽生の姿に、宍戸は言葉を失ったという。かつて「無理だ」と言われたリンク再開。その先に立っていたのは、あのときリンクを失いかけた少年だった。

元宮城県職員 宍戸秀一(2014年取材当時):
「道を開くためにはまず歩まねばならない。みんなの協力があって、このリンクも存在している」

宍戸のこの言葉が、すべてを物語っていた。

宮城県庁への凱旋報告 羽生は金メダルと感謝の言葉を宍戸にかけた
宮城県庁への凱旋報告 羽生は金メダルと感謝の言葉を宍戸にかけた

イナバウアーに込めた 羽生の想い

羽生はその後の演技で、 “イナバウアー”を必ずプログラムに入れ続けている。得点に直結する技ではない。しかしそれは、リンクと人々への“感謝”のメッセージだと彼は語っていた。

仙台で生まれ、日本のフィギュアを支えてきた数々の物語。
そこには、リンクを守ろうとした人たちの汗と、夢をつなごうとした選手たちの歩みがあった。

その灯は、今も“始まりの氷”の上に、静かに、確かに灯り続けている。

リンク復活から8年後 頂点を決める舞台で躍動する羽生がいた
リンク復活から8年後 頂点を決める舞台で躍動する羽生がいた

仙台放送

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